| 2009年12月20日 『イエスを私はどのようにしようか』 |
| マタイ2章1節〜12節、27章22節 はじめに ◎世界の信友と生誕節礼拝を共にする喜び・世界の民のため祈るとき/ 旅や帰省など、今日が今年最終空目となる方々もおられるが、恵みと 良き顧みをなし、祈りのうちに新年を迎えられるよう、お勧めする。 ◎世と教会のクリスマスの最大の違いは、十字架/「生誕の出来事」 だけでなく、聖い御子が主の主・王の王との事実に関連する 3チャレンジに。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ T.第1チャレンジ=誕生・来臨された王に CHRISTMASU ≪飼葉桶に臥しておられる王≫ ・『王としてお生まれになった方は、どこにおいでになりますか。』/ 『おいでになるはすの方は、あなたですか。それとも、私たちほ別の方 を待つべきでしょうか。』 (マタイ2:1〜12/11:3) A.チャレンジの背景 東方の博士が、星を頼りに大変な長旅の後、エルサレムを訪ねて発した質問 王妃より投致されたが、主からの助けはなく、パブ=ヨハネの深刻なな質問 B.チャレンジの内容 @近代・現代人は、自己主張・自己中心・自己達成を美とし、成功とした結 果、真の意味で自分と生き方を見失った。人心の、一方の叫びがこれでは ないかご(私が王という生き方でなく)私の王はおられるのか、どこにかと。 ※比較:旧約最初の質問『あなたは、どこにいるのか?』 ・今の世界/日本/自らの関係する社会/自然界を真面目に直視する 時、この悲痛、真剣な叫びは「私の質問、教会の問題」ではないのか。 主に全ての解決があると安易に言ってしまえるのか。本音はどうなのだろうか。 Aこうした問題を意識しつつ、なお博士が「受肉された飼葉おけの嬰児」を礼 拝したように、あえて信仰を働かせ、この方を王の王として心からの礼拝を。 (賛美歌405)1節☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ U.第2チャレンジ=十字架上の王に CROSS 《茨の冠をかぶっておられる王》 ・『では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか』 ・『今、十字架から降りてもらおうか。』(マタイ27:22、42) A.チャレンジの背景 裁きの座でのピラトの言葉、無実と知りつつも敵対者に直面する勇気はなく。 十字架にかけられた主を、嘲り罵る言葉、処刑者の宗教家たちや通行人から B.チャレンジの内容 @ピラトは無意識の中に、万人への最重要な質問をした。キリスト者も非信 仰者も、改めて問われている問である。私の信仰告白は、口先や頭だけ になっていないか。苦難・十字架の主を、心の中心捉お迎えしているか。 Aこの嘲りに対して、私と救いのために降りられなかった主の愛と救いの恵 みを改めて覚えたい。茨の冠をかぶられた主こそ、賛べき王であると。 (賛美歌589)1・4節☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ V.第3チャレンジ=復活の王に CROWN ≪栄光に輝く主の主、王の王≫ ・『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか』/ 『栄光の王はだれか』 (ルカ24:5/詩篇24:8) A.チャレンジの背景 復活の日、墓を訪ね、死体が見当たらないと狼狽える女たちへの 天使の告知。メシヤ詩と言われる詩篇24に、この表現は、2回繰り返されている。 B.チャレンジの内容 私たちの、主を仰ぐ信仰は、表面的、形式的になっていないか。活きた輝け る主として礼拝しよう。さらに栄光の王を仰ぐ究極の礼拝の日を侍望しよう。 問題・課題の直中にこそ、統治されている活ける主を あえて告白する信仰を。 ※(時があれば)グラハム・ステインズ宣教師一家を襲った出来事 (讃美歌582)l・6節 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ おわりに ◎この朝、主は王として臨んでおられる。飼葉おけの王・苦難と十字架の王・ 活ける栄光め王を、私は、心の中心に真の王として迎えているだろうか。 (例話)ヘンデルのメサイアのロンドン初演は(1742年)時、ジョ一ジU世が ハレルヤコーラスで起立した⇒主題の黙示19:6により 1牧師の演奏会時の再献身 |