| 2009年10月25日 『信仰の井戸』 |
| 創世記26章12〜25節 はじめに 本日プレイズタイム「恵みのしずく」で、神様がご覧になることについての霊想をお読みい ただきました。 また、本日の礼拝の賛美は「見る」ということについて歌われている賛美ばか りを選んでおささげしました。 このように「見る」というとき、それは、肉眼で見るということでなく、注目する、重視す る、望むというような意味を含みます。 私が神学院を卒業してから20年近くが経ちますが、牧師・宣教師として遣わされるため、 学院の訓練の中では、よく「見る」ということを学ぶと言われました。 まず、人を見、自分を、そして神様を、というように、見つめるものが変わってゆき、神様の前にひとりになるとい うことを教えられてゆくと言われていました。 私にとっての4年間も、やはりそうでした。 今朝は、試練の中でひとり神様の前に歩んだ、イサクの姿を見ていくことによって、主を 見上げて進むということについてメッセージを受け取らせていただきたいと願っています。 【1】試練を受けたイサク イサクは井戸を次々と散り上げられた。 *「井戸」…パレスチナ地方の人々にとって、水は命であった。 とくに牧畜をする者、多くのしもべや家族を養う者にとっては、 なくてはならない貴重なもの。 *「父のしもべたちが掘った井戸」・・・イサクのものとなって当然の井戸であった。 *「われわれより強くなったから…出て行ってくれ」・‥道理の通らないアビメレクの言葉。 *「われわれのものだ」…横取りをする、ゲラルの羊飼いの言葉。 *「それについても」(21節)・‥次々と繰り返し襲ってくる困難であった。 *「われわれ」(16・20節)…敵は多くの者たちであった。 これだけは、絶対必要と思われるものを取られたイサク。 それは、彼が受けて当然の井戸 だった。しかも、不合理な言葉、納得できるはずもない理由を武器に。 根拠がないとさえ思われる敵意だった。それらによって、祝福に満ちていると思われる土地から追われ、そ のあげく、自分たちが得た井戸さえも取り上げられるという、多数からの屈辱的な仕打ち を受けた。 【2】試練の中でのイサク *忍耐「再び掘った」(18節) 本当なら、そのまま受けることができたはずの井戸を、もう一度掘った彼。その中に見 られるのは忍耐。 *無抵抗 「われわれ」と言いつつ、複数で力をもって追ってくる敵たち。その仕打ちを、一人で矢 面にたって受けたイサクは、黙って次々と場所を移り、次々と井戸を掘った。 「イサクは」「彼は」(17,18,22,23.25節)とあるように、自分のしもべたちに囲まれていた とはいえ、彼はこの試練を抗うことなく、一人で耐えたことがわかる。 敵対するものたちに対しても、またこの試練そのものに対しての心の動きさえも彼は無 抵抗であり続けた。 *信頼「今や主は」(22節) はじめて口を開いた彼の言葉には、神様への信頼が表われている。 今までの争いには目も留めず、その中でつらい思いをしてきた自分をも強調せず、彼は 「争いが無かったので」「今や主は」と口を開いた。 ただ「今」、恵みをくださっている「主」への感謝と賛美を告白している。 これらは、そこに至るプロセスの中でも、御臨在の実感と主への信頼をもっていたから こそ言える言葉であろう。 【3】試練を越えたイサク 試練を越えたイサクに与えられた祝福は、神との関係の確立とまとめられるのではないだ ろうか。 *イサクと主との個人的な語らいがあった。 「私たちに」(22節)にというイサクの告白に対し、主は「彼に」(24節)おおせられた。 *主が共にいてくださるという約束。(24節) *祭壇を築いた(25節)・‥自分と神との関係の確立 *主を知らない人々さえもが認める祝福(28節)を得た。 おわりに 忍耐とは、日を閉じて苦しみが過ぎ去っていくのを我慢することではなく、その中でいよ いよ目を開いて、神様を見上げることなのだということを知らされています。 次々と井戸を抱っていたイサク…彼は、一人で、しかし神様を見上げて主と共に戦い続け、 神様を体験し神様を見るということにおいて、「信仰の井戸」を撮り続けていたのではないで しょうか。 私たちの行く手に待ち受けているものは、長い孤独な戦いであるかもしれません。 しかし、イサクのように進みながら、やがて「今や主が」という恵みの神様をたたえる者とな らせていただきたいと思います。 神様は、彼への祝福の約束と同じ約束の中に、私たちをも、キリストにあっておいていて くださいます。 私たちの前に起こりくるすべてが、それが困難と思われることであっても、 祝福と約束の成就に向かう伏線として、主から与えられているということをうなずき、主を 見上げつつ歩む者でありたいです。 その歩みは、ひとりきりの心寂しい戦いではありません。 なぜなら、イエスさまが、私た ちの前を歩んでくださったからです。イエスさまは、私たちの弱さを知り、その私たちに必 要な力をご存知で与えてくださる方です。 |