| 2009年9月13日 『慰めもまたキリストによって』 |
| Uコリント1章1〜11節 はじめに 今朝のメッセージの題は5節からの引用。「慰めもまた」の「また」という語があるのは、そ の前に、「苦難」があふれているといわれていることに続いているからである。 今朝は信仰者が受ける「苦難」と「慰め」について、みことばから学び、主からのメッセージを 受け取らせていただきたい。 【1】「苦難と慰め」……その事実 *「キリストの苦難」が「あふれている」 「キリストの苦難」とは、信仰を持っているために受ける苦難。人の過失や失敗のために 受ける苦しみではなく、神様の働きのため、人々の魂のために受ける苦しみのことを言 う。福音の戦いのための苦難、伝道と教会形成のために受ける苦難を指している。 その苦難が「ある」というだけでなく、「あふれている」と記されている。 この書簡は、直接的にはクリスチャン宛の手紙であるし、この「苦難」は、「キリストの 苦難」なので、神様を借じる者こそが与えられる苦難であり、それが「あふれている」と 書かれていることを覚えたい。 *「苦難によって慰めを受ける」 私たちがキリストに従って生きようとするとき、そこにはキリストの苦難があふれてい る.しかし、そこで主は私たちを慰めてくださること、また、その苦難は人々の慰めの ためであることが記されている。 「慰めの神」という青葉がある・・・この方が慰めを下さるために、私たちに試練や苦難をも お与えくださる、ということができる。 パウロは「私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのため」といって いる。パウロに、こう断言させたのは、続いて書かれている彼自身の苦難の体験に他な らない。 (*この書簡が書かれた背景) その体験について見ていく前に、この書簡が書かれた背景のことにふれたい。 「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ」(1節) 彼が、この肩書きを手紙の冒頭につけたのは、コリント第−の手紙での彼による叱責を 受けて、彼の動機を疑ったり、使徒であることを否定した人の存在があったから。 ここには、「キリストの苦難」を知っている彼が、必死の思いで記したような箇所が多く 見られる。彼は、物理的にはコリントの人々との間に距離を持っていたが、遠くから、 あるいは高い所から指し示すような言い方ではなく、また、思索による理想を語ったの ではなく、彼自身の体験の中で神様によって知ったことを記した。 パウロは、すでに見て来たように、最初の部分で当然のことのように、苦難について述 べている。そして彼は、続く8節から10節に、自分の体験を織り込んで、なお深く語 る。 【2】「苦難と慰め」……その体験 *パウロが体験したは耐えがたいほどの大きな苦しみ パウロが精神的にも肉体的にも非常に大きな苦難を経験したことがわかる。 「非常に激しい」、「耐えられないほどの圧迫」、「いのちさえも危うくなり」、「死を覚悟」 「大きな死の危険」などのことばの直訳は忍耐の限界を超えた苦難を表わす。 8節の「苦しみ」という言葉は、原語で特定の苦しみを指す表現 *パウロが体験した苦難の中での神への信頼 「もはや、自分自身をたのまず、神により頼む者となるためでした。」(9節) パウロは、自分が通らされた苦難は、神により頼むことを学ぶ機会であったといううな ずきを与えられていたことがわかる。彼が試練の中で、自分の無力さを知らされ、そし て、神様に信頼し、そのお力を体験したことがわかる。 *パウロが体験した苦難の中での恵み 「慰めもまたキリストによってあふれています」(3節) このことばは、rキリス白つまり、救い主から慰められた経験をもっている者にしか言 うことのできない言葉であろう。また、「慰めもキリストによって」ということを知らな い人には、「苦難」を「キリストの苦難」と呼ぶことはできないのではないだろうか。 十字架の道をたどってすべての苦しみを、人として味わってくださった主は、私たちの会 う試練がどんなに激しくても、そこにともにいて、乗り越える力と愛の慰めをくださる。 その経験が、パウロをして「慰めもキリストによってあふれている」と言わしめたのである。 【3】「苦難と慰め」……その結果 *広げてゆく 慰めを受けただけでなく、それを他の人に広げてゆくことのできる者とされたという、 パウロの自覚が読み取れる。 口語訳…神様に慰めていただく、その慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を 慰めることができるようにしてくださるのです。 神様から慰めをいただいた経験を、私一人のものとしないで、証ししてゆこう。 恕めの神による恵みの体験を他の人に運び、証しし、流していく「神の慰めの運搬人」(あ る信仰者の言葉)になりたい。 *さんび・力・望みを得てゆく 苦難によって与えられたこの慰めは、受けて、与えてそれで終わるものではない。 その人のうちでさんびとなり(3節)、力となり(6節)、望みとなり(10節)続けるのである。 おわりに 聖書は、信仰者として歩む私たちが、その道すがら体験する「キリストの苦難」があること を語っている。しかし、「苦難」とともに、そこに「慰めもまたキリストによってあふれてい る」ことが約束されている。私たちは日々、その恵みを体験してゆくことができる。聖書の 光の中に生きること、イエスさまを人に伝えることなどによって、この幸いを運ぶお互いで ありたい。時にはそのことによって、さらに「キリストの苦難」を経験することがあるだろう。 しかし、そのようなときにも、私たちは歌い、力を受け、望みをいただくことができる。 主をみあげつつ、この週も進み行かせていただこう。 |