礼拝メモ

2009年5月24日   『聖霊…「私」を悟らせてくださる方』
ローマ人への手紙12章1・2節、8章1〜6節

・・はじめに・・
ペンテコステ(五旬節・聖霊降臨記念日)を前に、ローマ12:1・2のみことばが心に 響いている。「そういうわけですから」「お願いします」という表現で始まってはいるが、 ここに記されているのは、まさしく命令である。今朝はこの命令を中心に、「私」というもの を悟らせてくださる聖霊の力について知らせていたたきたい。同じローマ人への手紙のいく つかのみことばを開きながら、三つの角度から見ていこう。

【1】命令の前提  命令の前提は福音のすばらしさである。
*キーワードは「そういうわけですから」(12:1)
 これは、1〜11章とそれ以降をつなぐ役割をもった接続の言葉。
 1〜11章・・・「福音のすばらしさ」が書かれている。
「福音のすばらしさ」・・・どのような罪人でも、主の十字架による義認、
             生まれつきもっている罪の性質の解淡が
             与えられ、その福音を伝えるものとなって
             いくというすばらしさ。

【2】命令の対象、命令の対象である私に、聖霊は「見せてくださる方」である
*命令の対象は誰か。
 直接的には、ローマの信者の群であるが、主が「あなたがた」と語りかけて
 おられるのは私たち。
*命令の対象はどんな者か。〔牧師のきよめの証詞を含めて〕
 @聖霊は、私に「私」を見せてくださった。 ⇒ ローマ7:15〜25
 これは、神のみこころと、自分が調和していないと感じた人(パウロ)の言葉。
 〔この記事が、彼にとってどういう時期
  (回心前か後か)のことかについては諸説ある。〕
 私たちが「みこころは何か」(12:2)と問うとき、生まれつきの「私」は、
 それと調和しない事実を知る。
 聖霊はそういう「私」の内側を強い光で貫き、更に「私」を
 見つめるようにされる。
 ただし、みこころとの調和とは、何をするか(doing)ではなく、どうあるか
 (being)の問題である。
 「する」「行なう」(7:15〜25)という言葉が使われているが、パウロの
  叫びはみこころと調和できない自分の在り方を苦しんで発せられている。
 「死の、からだ」(7:24)…当時の死刑の方法のひとつであったことを例に
  とって言われている言葉。聖霊は、私に「私」を見せつけ、
  その汚れた実態を悟らせてくださる方である。
 A聖霊は、私に十字架の血潮を見せてくださった。⇒ ローマ8:1〜3
  「私」を知って苦しみ発せられる「私はみじめな人間です。
   だれが・・」(7:25)
  という叫びに、聖霊は十字架の血潮を見せて、解決を与えてくださる。
  この完全な解放と、御霊のいのちによって生かされている「私」であると
  悟ることはきよめの恵み。

【3】命令の内容  命令の内容は祝福の道への招きである。
 *ローマ12:1・2で命じられていることは、きよめの経験・生活、
  祝福の道への招きである。
 *1節
 「神に受け入れられる」…私自身を主に明け渡す時、
  主は喜び受け取ってくださる。
 「ささげなきい」・‥犠牲ではなく、主のものである「私」を
  ご自身の御手の中にお返しすること。
 *2節
 「変えなさい」…みこころを知り、従っていく歩みの中で、加えられ、
  広げられていく恵み。

おわりに
 私たちを祝福の道に引き上げ、進ませるのは、「私」がどんな者なのかを
 悟らせ、その「私」を受けとめてくださる方の愛である。
 100%の信頼と服従をもって主の前に出るとき、全き解放、
 自由が与えられる。
 今朝、聖霊さまが一人一人の心に直接に触れてくださり、
 み前に出る私たちの内側に、その静かな、確かなお方が
 あらわされるよう祈るものである。