礼拝メモ

2009年3月22日   キリストの愛とキリストの使節
コリント第二5章11〜21節

・・はじめに・・
5章に入ると、パウロは「地上の幕屋」(血肉のからだ)と「天にある永遠の家」(御霊の からだ)について語る。この幕屋は、病気にかかったり、傷ついたりして、壊れやすい弱き を持っている。だから、この肉体という幕屋を身にまとって、私たちは「うめき」苦しんで いる。そして、私たちは死ぬときが来る。しかしクリスチャンは、死ですべて終了するので はなく、もっと輝かしい世界、天にある永遠の家が備えられている。しかも天から与えられ る住まいは、キリストと同じ霊的なからだであり、聖と義とを身にまとうのである。このこ とを神は、御霊を保証として与えて下さる.そして、パウロは、「こういうわけで…、とい うのは・‥ですから…」と、地上における信仰生活を語る。

【1】 キリストの愛(11〜15節)
(1)私たちは主を恐れることを知っている(11節)
主への恐れとは、戦々恐々とした恐怖心ではない。主を恐れかしこむ畏敬の念をいう。パ ウロは、自分に対する不当な中傷に対して、神の御前において自分の良心と、誠実さ、真実 な心を持っていることを大胆に示した。
(2) キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(14節)
パウロの回心は、ダマスコ途上での出来事であった。その時から、彼の行動の動機は「取 り囲むキリストの愛」「迫ってくるキリストの愛」であった云「取り囲むJとは、もともと "一緒にしておく"の意味であるが、ここでは"押し付ける" "しめつける" "強制する"の 意味である。パウロは、イエス様の愛に押し出されて行動している。もちろんこの愛は、パ ウロがイエス様を愛したのではなく、イエス様が彼のために生命を捨ててくださったという 愛、すなわち嬢罪愛のことである。
(3) ひとりの人がすべての人のために死んだ(14節)
キリストの死は、罪のために死ぬべきすべての人間の身代わりとしての十字架の死である。 だからキリストは、身代わりの死によって、私たちの罪の刑罰をも身代わりに受けてくださ った。そのため私たちの罪は赦され、取り除かれたのである.キリストとともに死んだ者は、 自分の罪にも死んだのであり、よみがえられたキリストにあって神に生きるのである。

【2】 キリストの使節(20節)
(1) 新しく造られた者(17節)
キリスト者は今後、人間的な標準(肉)によっては人を知ろうとはしない。肉という、生 まれながらの人間の考え方とは、うわべで人を判断するやり方である。つまり、この世の価 値観では、民族、血統、社会的地位、富、称号などが重要性を持つ。しかし、キリストに従 う者にとっては、そのような区別はほとんど意味を持たないし、それに支配されることはな い。パウロは真のキリストを知ったので、かつての価値観では人を知ろうとはしていない。
(2) 私たちはキリストの使節なのです(20節)
私たちは生まれながらにして罪人である.神に敵対している者である。この責任は神には なく、私たち人間の側にある。神と人間の和解は、イエス・キリストの死によって実現され た。神と和解した者は、次に、和解の務め、神へのことなどを委任される。そのことによっ てキリストの使節、すなわち、自分自身を語るのではなく、キリストの代弁者として語るよ うになる。

<結び>
1.イエス様の愛は、どのような状況下にあっても私たちを取り囲んでいて下さる。
2.クリスチャンはすべて、イエス様の愛の使節者である。