礼拝メモ

2009年3月1日   十字架と恩寵
Iペテロ2章18〜25節

・・はじめに・・
本書は、教会初期の迫害以来、小アジア地方に散在していたクリスチャンたちに送られた 手紙で、特にローマ皇帝ネロの大迫害が迫っていた時に、彼らを激励し、彼らの信仰を堅く するために書かれた。小アジア地方のクリスチャンたちは新しく生まれ、御霊による堅め、 キリストの血の注ぎを受けた、選ばれた人々である。そのため彼らは、聖められて、御言葉 を慕い求め、成長していくことを求められた。2章の後半では、ペテロは、キリストの十字 架の死、キリストの受難を、「しもべたち」に勧めた言葉の中に最も美しく説明している。

【1】 主キリストの死は「苦しみの死」であった(21節)
映画『おくりびと』がアカデミー賞を獲得ということで、ビッグニュースとなっている。 この映画は、死に向き合う納棺師の仕事を描いた作品である。死はすべての生ける人にやっ て来る。死には、しばしば苦痛のない場合がある。また、苦痛を伴わないけれども突然やっ て来ることもある。
神の御子の死は苦しみの死、すなわち、肉体の苦痛、心霊の苦痛をともなった。これらの 苦痛の背後には、潔くして汚れもない主の霊に押し迫る、罪と汚れと不義の霊があった。「こ の方こそ、私たちの罪のための…なだめの供え物なのです」(Iヨハネ2:2)と、私たち は、神の御子の上におかれた世の罪の苦痛を、描写することができるだろうか。

【2】 主キリストの死は「無罪の死」であった(22節)
罪のないイエス様が、罪のある者たちのために死なれた。無罪のお方が有罪の者たちの代 わりに、有罪の者たちのために、有罪の者たちの手によって苦痛を受けられたのだ。私たち は自分の罪を知るまでは、罪のないお方を知ることはできない。ああ、罪のないお方が罪あ る者たちのために罪を背負われたとは!

【3】 主キリストの死は「無抵抗の死」であった(23節)
イエス様はののしり続けられ、苦しみの連続を経験きれても、抵抗せずに一切を神に委ね られた◇最大の逆境の中、父なる神のみこころのままに祈られつつ、父なる神に委ね続けら れた.愛する独り子を死に向かわせる父なる神の涙は、愛の涙であったのではなかろうか。 父なる神は、正しく裁かれるお方である。

【4】 主キリストの死は「十字架上の恥辱の死」であった(24節)
イエス様は、私たち人間の罪を瞭うためにこの世に来られた。それゆえ主イエスの死の旅 は、審判を受けた夜でも、ゲッセマネの祈りでも、カルバリーの十字架でも、聖霊の導きの ままであった。主イエスは、ただ、神のため、全世界の罪のため、十字架の死を受けられた。 「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ9:7)と語られたように、その熱心は義 を愛し、悪を憎む。すなわち.、愛と憎悪が、十字架上で交差したのである。

【5】 主キリストの死は「恩寵の死」であった(24節)
主イエスの苦難と死の結果は、神の恵み、神の恩寵であった。ペテロはこのことを、後の 章で詳細に述べている。24節では、
@ 私たちの罪を負って下さった
私たちの罪を怒るのではなく、自ら罪のために刑罰を受け、私たちを愛して下さった。
A 私たちを罪から離別し、義に生きる者にして下さった
B 私たちの心と霊魂をいやして下さった
私たちの頑固な罪を砕き、いやし、汚れた願望と暗く乱れた思いをいやして下さった。

<結び> (25節)
神から離れていた私たちは、霊魂の牧者・監督者のもとに帰った。ついに私たちの放浪生活 は終わり、父なる神の家に帰還したのである。