| 2009年2月22日 天の御国の人に与えられた新基準A |
| マタイ5章33〜48節 ・・はじめに・・ 「義人は信仰によって生きる」(ロ一マ1:17)という経験は、御国の人(クリスチャ ン)にとって、新しい神の御支配、新しい生き方、つまり新基準の原点である。そこで、次 の3つの「生き方」を見ていこう。 【1】 誓いに対して誠実な生き方(33〜37節) 「誓い」とは、自分が語る言葉や言明が真実であると、相手に信頼してもらうための行為 である。この行為によって、語られた言葉は権威と拘束力を持ち、お互いが信頼し合って事 を進めることができるようになる。誓いをする時には、双方が信頼できる保証人を間に立て て、その前で誓うのが普通であろう。そうであるなら、契約の民である選民が神に誓うとい うことは、神の名によって誓ったのであるから、その神との誓約を誠実に実行しなければな らないということである。ところが律法学者たちは、詭弁的な逃げ道を考えた。すなわち、 神の名によるものは絶対に厳守すべきであるとする一方で、神の名によらないものはその限 りではないとしたのである。こうして彼らは、責任を回避して誓うことによって二誓いは破 られても良いとした。 「天」は神の御座、「地」は神の足台であるとともに神の臨在も表わしている。また、「エ ルサレム」は偉大な王の都(聖なる都)であり、「頭」は一本の髪の毛さえも人の意のまま にならないほど、人間の存在は神のものであることを表わしている。だからこそイエス様は、 軽々しく誓うな、詭弁を言うな(ごまかし、こじつけ)と言われている。ここでイコニス様は、 誠実に生きようとするなら、誓うという行為に重みを感じなければならないと語っておられ るのである。この聖句についてバークレーは、「ここに示されているキリスト教倫理の特質 こそ、クリスチャンの生活と行為を規定し、クリスチャンを未信者から区別するものである」 と述べている。 【2】 報復に対して善を持って応答する生き方(38〜42節) 「目に時日で、歯には歯で」は、同書報復法または同僚復普法と呼ばれる。旧約では、被 害に応じた罰、弁償が支払われるべきこと、人種的差別から刑罰が左右されないこと、また 同国人であっても、罰や弁償することは同じであることが示され、公正な裁判による刑罰の 範囲が定められている。それゆえこの律法は、個人的復等やあだ討ちの勧めではなく、逆に それらを禁じるものであった。しかし主イエ封ま、手悪い者に手向かってはいけません」と 言われた(悪い者に関する最良の注解はローマ12:19〜21)。つまり主イエスは、報 復の権利として主張できる状況でも、その権利を行使しないことを勧められた。そしてこの 点を明確にするために、4つの具体例を挙げられた。 @ 「右の頬」を打つ者には「左の頬」を向けなさい 右の頬を打つというのは、右利きの人が相手の右の頬を打つ場合、手の甲で打つので、当 時においては最大の侮辱であった。左の頬を出すということは、本来往復する憎悪と敵対行 為を、片道で止める中を持つことを意味する。イテス様は、個人的暴力や攻撃に対して復讐 するなと言われた.もちろん、公的・法的・社会正義にかかわっていることについて、抗議 し、立証することを禁じているわけではない。 A 告訴して下着を取る者には、上着もやりなさい ここでの「告訴」とは、借金・債務に関してのものである。出エジプト2:26・27で は、特に、やもめから上着を取ることを禁じている。ところが主イエスは、律法で取られる ことがないと保障されているにもかかわらず、それさえ主張せずに、上着をも与えるように と勧められた。そのようにすれば、神御自身が御国の人を養って下さると保証されたのであ る(マタイ6:31〜34)。 B 1ミリオン(=1480m)から2ミリオン行きなさい 当時、公用のために、私有の馬・車を強制的に徴用・徴発して、物を運んでいた。持ち主 はその馬や車とともに1ミリオン行く義務があった。しかし主イエスは、強いられた距離の 2倍の距離を行くようにと言われた.ここで主が語られているのは、強いられた者の心では なく、自由な自発的・積極的な心であることが、御国の人の生きる心得だということである。 C 求める者には与え、借りようとする者には貸す これは金銭や物品の貸し借りに関してのものである.この教えは、思慮なくして金銭を与 えたり、貸したりしろと言っているのではない。主イエスが指摘されているのは、私利私欲 のために他人の必要に対して目を閉じてしまうような、自分本位の考えである(Iヨハネ 3:17)。つまり、利己的な心や出し惜しみするような生き方に警告を発されたのである。 使徒ペテロは、金銭を求めた者に対して、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩 きなさい」(使徒3:6)と言って、最も優れたものを与えている.真の与え方は、相手が もっとも必要としているものを見抜いて与えることではないだろうか。 【3】 すべての人を愛する生き方(43〜48節) 「自分の隣人」とは、ユダヤ人にとって、同じ神への信仰をもつ同胞、神との契約共同体 の仲間のことであり、彼らと「愛し合う」ことが最重要視されていた。「自分の敵を憎め」 とは、旧約のどこにも兄いだされない教えで、申命記7:2、同23:6、同25:17〜 19などから要約きれた表現であった。 紀元1世紀当時のユダヤ人は、ローマ帝国の支配下にあって、愛の対象は選民に限られて いた.彼らは異邦人を、真の神にそむく敵とみなした。この敵には民族的なものばかりでな く、個人的なものも含まれていた。その敵の表現は、「迫害者」「正しくない人」「取税人」 「異邦人」と表現を変えて呼ばれているが、同一の人々を指している。主イエスは、「敵を 憎む」という言葉がどのような意味であるとしても、御国の人に対しては次のような愛し方 を教えられた。 @ 迫害者には祈りなさい(44節) 迫害者には、ローマのような政治的権力や、家族や友人といった身近な人々がなる場合も ある。それでも主イエスは、そのような人々に愛を注いで祈るように勧める。祈りの中で、 不思議なことに、憎しみが愛に変化していくことを体験された兄姉が数多くおられる。例え ば『悩み続ける苦しみから人生を取り戻した人々の物語』(いのちのことば社刊行)を読む と、放しの深さに驚く。 誠に「自分の敵を愛する」とは、主キリストが内に宿り、聖霊が働かれる時、本能的に憎 むところを克服していくことである。積極的な愛は、祈る敵なる相手を憎めなくする。祈り は、祈る者の内に心の変化を生む。 A 愛と祈りによって父の子どもとなる(45〜47節) 天の父の子どもは、神の御性格にあずかり、それを所有する者となる。そして、神の愛を 受けた彼らの働きによって、ユダヤ人と異邦人の差別はなくなっていく。神の摂理による恩 恵は、すべての人に公平に臨む。 ところが選民ユダヤ人のしていることは、同胞のみを愛するものであった。それゆえ彼ら は取税人や異邦人となんら変わらない。 主イコニスは、太陽や雨のように、どんな人の上にも神の愛が注がれていることを語られた。 <結び> 天の父の完全なように、完全になりなさい(48節) 完全とは、人間の知恵、学問、力の完全ではなく、愛の完全を意味する.愛の完全とは、心 がきよめられて、愛に反する罪が除かれることである。つまり愛の完全とは、悪や罪に抵抗 しないばかりではなく、キリストの心を心として、聖霊によって神の愛を心に注がれていく 信仰生活そのものである。 |