| 2009年2月15日 天の御国の人に与えられた新基準@ |
| マタイ5章17〜32節 ・・はじめに・・ イエス様は、御国の子らとしての祝福にあずかる者に、その祝福を世の人々に輝かす責任 と働きがあると話された。17節から本題に入り、律法学者やパリサイ人の教えとは異なる ことを教えられた(7章まで)。まず5章全体では、律法と福音の間には、まったく矛盾が ないことが語られる。つまり、主イエスの到来は御国(神の国)の到来であり、新しい神の 御支配の時代の到来であること、そして旧約の律法は、新しい御国においても廃棄されるも のではなく、永続性があるということを、主イエスは強調されたのである。 【1】 御国の人の新しい義(17〜20節) (17、18節) イエス様は旧約を成就するために来られたのであり、決して律法破壊主義者ではない。主 の意図は、律法を弱めたり否定したりするところではなく、神の言葉を一点一画正しく解釈 し実行することで、律法を確立するところにあった。 (19、20節) 律法学者たちは記された文字そのものにとらわれた。その上で「戒め」を、「重要でない もの」と「弱いもの」とに分けて律法を解釈していた。またパリサイ人は、律法を最も形式 的に厳密に守る外面的敬虔主義者たちであった。このように、彼らの「義」は、文字そのも のに頼る形で成り立っていた。彼らの「義」にまさる義どは、内面的、心の態度に基づくも のである。イェス様が要求された義は、人間が努力で実現するものではなく、神から備えら れた賜物によって実現する。つまり、私たちは聖霊の働きを通して罪に目覚め悔い改め、主 を受け入れることによって神の義の賜物にあずかり、その義を主イエスを通して反映させる のである。 クリスチャンの義は内的なものであり、パリサイ人の義は外的なものである。クリスチャ ンは内側をきよくし、きよい心をささげるが、パリサイ人は良い生活を神にささげようと努 力する。つまりクリスチャンの義は、心の貧しさ、悲しみ、柔和、義に対する飢え渇き、隣 人に対する愛、平和をつくること、心のホーリネスと、みな内的なものであるが、パリサイ 人の義は、義それ自体を行なうこと、神の戒めを守ることと、みな外的なものである。 それゆえクリスチャンの義は、「律法学者やパリサイ人」よりも上でなければならない。 特に霊性とホーリネスにおいて、パリサイ人の義にまさっていなければならない。なぜなら、 クリスチャンはキリストを離れては何もできないが、「私を強くしてくださる方によって、 どんなことでもできる」(ピリピ4:13)からである。アーメン。 【2】 御国の人の和解(21〜26節) モーセの十戒にある「殺してはならない」(出エジプト20:13)という律法は、神か ら与えられた生命の尊重を命じている。新しい義の基準は、「腹を立てる者」、「能無し」と か「ばか者」と言う者、すなわち、いつまでも怒りに打ち震えたり、相手を間抜け等と呼ぶ 傲慢な態度をとることが、それだけで神の前に重い罪であることを示したのである。イエス 様は、そのような態度をとる者には、それぞれ「最高議会での裁判」、「燃えるゲヘナ」を通 して、処罰をもって対応された。 律法は外に現われた罪しか扱えないが、神の御前には、怒りやさげすむ心、腹を立てる態 度や軽蔑する態度、怒りやあざけりの言葉も、明白に犯罪となるのだ。主イエスは、そのよ うな人間の罪性の恐ろしさに気づくようにと警告された。それゆえ、人間の罪性は窒化(聖 潔)されなければならない。 (23、24節) 22節の実際的な適用例を述べている。自分が兄弟に腹を立てることから、さらに一歩進 んで、自分が兄弟に恨みを抱かせるようなことをしていたのを思い出したなら、祭壇の供え 物を置いた後、まずその兄弟と仲直りをしなければならない。神との交わりは、他の人々と の和解を前提にしているからだ。このような和解の努力を相手が受け入れてくれるかどうか、 それは別問題である。しかし結果はどうであれ、白らの分を果たすことこそ重要である。「あ なたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)。 (25、26節) 22節の適用例の2つ目を述べている。イエス様の時代の社会では、もめると裁判所の調 停に持ち込むのが日常的であった。 【3】 御国の人の純潔(27〜30節) (27、28節) モーセの十戒にある「姦淫してはならない」(出コこジプト20:14)との律法は、人間 の家庭生活のあり方、すなわち、正しい性の関係の尊重を命じている。そしてこの立法を通 して神は、純潔と貞換を求めておられる。また申命記22:10〜22には、それぞれの状 況に応じて細かな規定がされている。1世紀のユダヤ社会においては、同胞のイスラエル人 男子の権利を侵した場合のみに適用されていた。そのような当時の慣例に対し、イエス様の 教えはまったく異なっていた。夫婦の誓約の中に他の者が割り込むのは罪であり、自らの誓 約に対する背信行為、裏切りなのである。 また主イエス様は、人の心に宿る、様々な情欲と欲望における罪性を指摘された。「欲が はらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)と、イエス様は行為に 先立つ心、動機、態度に、罪の誘惑を受けることを示される。「キリスト・イエスにつく者 は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけ」(ガラテヤ5:24)る ことによって、罪性をきよめられるのである.アーメン。 (29、30節) 「目」は人をつまずかせないためにあるが、実はその日が誘惑の入り口となる。また「手」 も、罪を犯す道具となる。主は「目」と「手」について語られ、純潔への道を示される。「え ぐり出す」「切って捨てる」という外科手術を自らの意志の決断でするように、罪を誘惑す る習慣、交友関係、職業、快楽、趣味などを自ら切り捨てる。これは.実に厳しい主イエスの 要求である。 アダムの堕落以来遺伝している罪性が聖化され、まったき愛に満たされていると、聖霊様 は赤信号をもって誘惑を断ち切る防波堤となってくださる。ハレルヤ。 <結び> @ 主イエスは、預言の成就ばかりでなく、律法の成就でもあられる。 A 律法の中のいろいろな儀式は、キリストの模型である(ヘブル人への手紙は、キリスト 論、特にキリストの贖罪論を強調している)。 B 旧約の律法は外的な行為を要求するが、新約の光は内心の聖潔(聖化)を要求する(ロ ーマ人への手紙は、罪の普遍性、信仰義認、原罪、聖化など、教理に重点を置いている)。 |