| 2009年2月8日 地上における幸いな人の使命 |
| マタイ5章11〜20節 ・・はじめに・・ イエス様は、3〜10節までの「幸いな人」を多くの群衆に向かって語られ、11〜12 節を御自身の弟子たちに向かって語られた。「わたし(イエス)のために、ののしられ、迫 害され」と限定されている。主イコCスに従う者は、実に迫害を避けられない。パウロも「確 かに、キリスト・イエスにあって敬虞に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Uテ モテ3:12)と述べている。主イエスは「迫害には大いに喜びなさい」と言われる。 この強い「喜び」という表現は、感情から来るのではなく、心の姿勢・あり方から来るの である。なぜ!?迫害を受ける者が喜ぶのだろうか?その理由は、1つには、迫害を受ける ことに対しては御国での大いなる報いがあるからである。この「報い」とは、「現在迫害さ れ、非難されている状態に対する将来の大きな報酬」の約束である。初代教会においては、 このメッセージは強烈であったがゆえ、殉教者たちを強く支えることになった。2つには、 預言者たちと同列に置かれるからである。こういうわけで、迫害を受けるWにもかかわらず Z喜ぶのではなく、迫害のWゆえにZ喜ぶのである。パウロは「私は勇敢に戦い…信仰を守 り通し…今からは、義の栄冠が…用意されている」(Uテモテ4:7〜8)と語っている。 イエス様は天の御国の子らの幸い・祝福を示された後、幸いであることに伴ってくる責 任・使命を告げられた。 【1】 御国の人は「地の塩」としてこの世に遣わされている 迫害されても逃げないで、世の中の「塩」として生きる。「塩です」とイエス様が断定さ れたのは、塩には多くの役目があり、他の物のために存在するからだ。腐敗を防ぐ、清める、 味付けをする等々。塩が塩気をなくしたら、塩の役目を失い、ただのかたまりに過ぎなくな る。つまり重要なのは、塩そのものの存在なのである。同様に、御国の人は、この地上にお いては、キリス十着でない者たちのために存在している。その人の意志、資質、能力、状況 とは無関係に、御国に属するがゆえに「塩」なのである。具体的には、キリスト者は神の愛 と義とを証しする人間の見本として、「ことばが、いつも親切で、塩味のきいたものである ようにJ(コロサイ4:6)、この世に混入している。また、「塩」は防腐剤であるから、こ の世の腐敗を示し、浸み込んで堕落を防ぐのである。確かに、「地の塩」としての役目を果 たして天の御国に属していることを証しした人々は数多くいるが、「地の塩」として価値あ ることは、御国の人(キリスト者)そのものとして存在していることなのである。アーメン。 【2】 御国の人は「世界の光」としてこの世に遣わされている 塩は、自らの姿を消して他のものの中に浸透していくことによって、役目を果たしている。 光は、他のものを照らすことによって、役目を果たしている。旧約時代には、イスラエル民 族にく諸国民の光としての使命が与えられていた(イザヤ42:6,49:6参照)。新約 の御国においては、クリスチャンたちに、世界の光の役目が委ねられた。 私たちは自分の努力で、自ら「世界の光」を放つことは不可能である。夜の月のように、 主キリストの光を反映する以外、光となることはできない。私たちはイエス様から光をいた だいて輝くのである。「隠れたクリスチャン」であることは不可能である。私たちは「共に おられるイエス様」「内にあるイエス様」の光を、私たちの行為と生活を通して人々の前で 輝かす.これが「光」の使命である。御国の人々は、キリストを受け入れた時、光を内に与 えられた。そしてキリストが内に住んでくださり、キリストや神の輝きが、御国の人々の品 性、態度、言葉を通して現わされていくのである。 <結び> @ 私たちが塩の役目を果たすためには、この世に妥協して埋没してはならない。 A 私たちが神の光を輝かすのは、自分の栄光ではなく、神の栄光のためである。 |