| 2009年2月1日 天の御国から見た幸いな人 |
| マタイ5章1〜10節 ・・はじめに・・ 礼拝説教には、年会までの間「主の山上の説教」が導かれている。イエス様は、御国に属 する者がどれほど素晴らしい祝福にあずかっているかを明らかにして、どのような状況にあ っても、その幸いを確認することから始めるよう激励する。 【1】 御国の恵みの盈満(充満) 「八つの幸い(祝福)」は、御国の祝福の1つに内包される八つの側面である。先週の礼 拝では、ガラテヤ5:22〜23から「御霊の実」が九つあることを聞いた。実際には、御 霊がクリスチャンの内に働いて1つの実(人格)を結ばせて下さり、それが九つの側面(品 性)に表われる。1つや2つであれば、御国の幸いを言わなくても「幸いです」と言える人 はいるかもしれない。しかし、これら八つの状況すべてに「その人は幸いです」と言い得る 人はいない。ただ、神が備えて下さる恵み、天的な命に目を留める時のみである。 さて、今回の箇所では、次の@、E、Fに特に留意されたい。 @「幸いな人」は「心の貧しい者」である。 「心の貧しい者」とは、どんな人だろうか。「神の前に無一物、神のみに頼らざるを得ない ことに気づいている謙虚な人」の意味から、疑いもなく謙虚な人である。自分自身を知って いる人、罪の意識を持っている人、キリストへの信仰に先立つ最初の悔い改めを神が与えて 下さった人、のことである。自らの中に何の霊的なものもなく、乞食同然で、自分が霊的に 本当に貧しい者であることを白覚している人である。どうして「心の貧しい者」は幸いなの か。主イエスが「天の御国はその人たちのもの」と宣言されたように、私たちの「ただ中に ある神の国」は「義と平和と聖霊による喜び」なのである。 A「幸いな人」は「悲しむ者」である。 B「幸いな人」は「柔和な者」である。 C「幸いな人」は「義に飢え渇く者」である。 D「幸いな人」は「あわれみ深い者」である。 E「幸いな人」は「心のきよい者」である。 「きよい者」とは、混ざり物がないことを強調している言葉で、原語では"純潔、純粋"の 意味がある。原語の「心」は、"知ること、考える、意思する、決断する、行動する、ささ げる"など、すべての活動の源泉である。ところが、罪を犯した人間にとって、この「心」 がとても厄介なものになってしまった。具体的には「悪い考え、‥・ののしり…」(マタイ1 5:18〜19)なのだ。こエレミヤは「人の心は何よりも陰険である」(エレミヤ17:9) と語り、ダビデは「神よ。私にきよい心を造り、…」(詩篇51:10)と語った。つまり、 人間は誰もが生まれながらにして心がきよくないのである。 山上の説教がなされた時、イエス様は3年後になされる購いの業(十字架、復活、聖霊の 注ぎ)をすでに前提にしていたと言われている。信仰者にとっては当然のことだ。それゆえ 「心のきよい者」は十字架の購いの血によってすべての罪を赦され、きよめられた人である。 イエス様は「その人は神を見る」と語っておられる。今私たちは、御言葉を通して神を見る。 そしてやがて「神の御顔を仰ぎ見る」時が来る(黙示録22:9、Iコリント13:12)。 F「幸いな人」は「平和をつくる者Jである。 「平和をつくる」とは、いわゆる、平和に生きる、平和を望む、平和を楽しむ、平和を守る という消極的な行為ではない。積極的に、他の人々との利害関係や対立関係の中で平和な状 況を生み出すよう、具体的に努力することである。そのためにはまず、「神との平和」が必 須である。この平和を無視して、人との平和は存在しない。 <結び> @ クリスチャンは、祝福を受ける神の子である。 A 御国の人となった特権は、決して放棄すべきではない。 |