礼拝メモ

2012年1月29日   『主を待ち望む者』
イザヤ書40章21〜31節

はじめに
2012年に入って早くも1月が経とうとしているところですが、私たちの教会は、この月、思いもよらなかった出来事に直面し、すでにこれらのことの中で、一つとなり、神さまの恵み、今年の目当てである年間聖句の「主を待ち望む」ということを、体験的に知らせていただきながらこの教会総会の朝を迎えました。
教会にとって、総会は一年間の活動方針、体制を整える大切な会議です。
この礼拝のために、元旦聖日礼拝でお取次ぎしました、年間聖句のメッセージを携えて参りました。
昨年末に、このお言葉を主から示していただいたとき、牧師たちと教会に、今年に入って起こる出来事、与えられる課題など想像もつきませんでした。
濃厚な主からの語りかけを受けながら共に歩ませていただいた、この1ヶ月、主が教えてくださった恵みを味わいつつ、また、このような試練の中でこそ、大きな期待をさせていただきながら、年頭聖句のメッセージを再びお伝えしたいと願っています。

昨年までの徳島教会の歩みを振り返り、現在の、そして今後のための、この群に対する主の語りかけをお聞きしながら過ごす中で、私の心のうちに響いていたのは「待つ」という言葉でした。そして、その思い巡らしの中で、今年の教会の年間聖句として与えられたお言葉が、イザヤ書40:31でした。
先ほどこの章の最後のほうの段落だけをお読みいただきましたが、この40章全体は「慰めの章」といわれ、1〜11節は慰めの序曲、12〜26節は慰めの理由、27〜31節は慰めの条件と区分されます。ですから、「主を待ち望む」ということをみことばを与えられ、それをこの年、実践して生きようとする私たちですが、この指し示し、導き、あるいはご命令が神さまからの溢れるばかりのご愛と慰めという大前提のもとに、私たちに投げかけられていることを、忘れない者でありたいと思います。

さて、これらの言葉を預言者イザヤから聞かされている人々は、神の民でありながら、神が見えなくなっている人たちでした。
彼らは、決して、神さまのご存在を知らないのではなかったのです。
恵みについても、聞いたことがない人たちではありませんでした。
神に愛されているということも教えられては来た人々でした。
しかし、彼らはその恵みの中に生き続けてはいなかったのです。
そのような彼らに、神さまはご忍耐を持って、問いかけ、彼らに「主を待ち望む」ということを語っておられます。

〔1〕待ち望むべき主はどのような方か
ここでイザヤは人々の常識の中で偉大とされているものを挙げて、それらと神さまを比較することによって、神さまの偉大さを教えています。例えば、(お読みしなかったところもありますが)
国(15節)…当時の大国はアッシリアやバビロン、君主(23、24節)…ネブカデネザル、
また、自然界における壮大なもの、大地(21、22節)や天体(26節)、預言者は、すべてを推し量ることができないほど雄大なものについて彼らに示し、これらにさえ偉大さを感じ、感動しているあなたがたが、もっとはるかに偉大な神さまを忘れてはいないかと語っています。
そして、25節…「この方を誰になぞらえ、比べようとするのか」、27節…「なぜ言い張るのか」、28節…「知らないのか、聞いていないのか」と問いかけています。人は、この偉大な神さまの前に、小さく弱い自分であることを知らなければなりません。
あらゆることに限界を持っている私たちだから、弱く疲れたゆむ者だから、この偉大な方だけを、待ち望むべき方としてとらえる必要があるのです。

〔2〕主を待ち望むとはどういうことか
では、この主を待ち望むとは、どういうことでしょう、どうすることなのでしょうか。
31節の「待ち望む」という言葉には「ねじ込む」「織り込む」という意味があるそうです。
つまり、望み得ないときに、望むというニュアンスでしょう。
待ち望むとは、困難の日にも、失望材料かあふれているようなことの中でも、偉大な主に目を上げるということです。
私たちの問題課題も含めたすべてのことについて、主に御介入いだだくことを望み、明け渡して決意することです。
イザヤは人々にこう問いかけます。27節、「なぜ言い張るのか」と。
ふと自分で思うのか、誰かがささやくのか、苦難の現状がそう思わせるのか、イスラエルの人々のように、「私は神さまに見過ごしにされている」と言いたくなったりすることはないでしょうか。
この27節は、そのような人の感傷的な甘えを指摘するように、まっすぐに問いかけられているのです。
そして問うだけでなく、そのように思う人に対して、堂々と答えを持って、神さまがどんなお方で何をなさるかを語り励ますために投げかけられている質問なのです。
自分の思い、わがままが通らないからと言って、子どもが「お母さんはぼくのことを思ってくれていない」と叫んでも、それが正しいわけではなく、「なぜ」と自分に問うとき結局、問題は母親ではなく自分にあることを気づかせられるように、神さまの前に座り直して、この問いかけに、ありのままに返事をする必要がある時が、クリスチャンにもしばしばあるのではないでしょうか。
そのような自分を、神さまの前に持ち出して、見つめることは私たちにとってつらいことかもしれません。
しかし、叱ったり決めつけたりなさるのでなく、「なぜ」と優しく問いかけてくださる主は、御前にひれ伏して、すべてを委ねる者に力を更新してくださるお方です。

〔3〕主を待ち望む者のさいわいは何か
このように主を見上げるなら、神さまは遠くにおられるのでなく私たちに触れてくださることが28節からわかります。
28〜31節…この部分から、主を待ち望む者が与えられる幸いは何かについて、最後に見ていきましょう。
まず、力が与えられることがわかります。そしてこの力は、付け足されたり添えられるようなものではなく、「新しい力」であることが書かれています。つまり新しい種類の力、地上における私たちの信仰の闘い、旅路に必要な力のことです。
教団創設者 蔦田先生は、その中心的な力は、霊力・精神力・体力であって、これらには有機的な関連があり、この霊的な力によって、私たちの肉体はリードされていくと言われたそうです。
困難の中でさえ、弱さの実感に沈みそうになる時でさえ、主を待ち望む者にはこのような力が与えられるのです。
この力の賦与は、飛べなかった者が翼を力強く広げて飛べるように されるというものです。歩いて走って飛ぶのでなく、飛んで歩いて走るという力の与えられかたなのです。
そして、この力を得て生きることに成長が与えられるという幸いも描かれています。
力を与えられた者が、なお続く闘いの中でも、新しい力によって飛び歩き走り続けることによって、この新しい力とその供給者を更に知って成長していくことが「たゆまず疲れない」とみことばの中に約束されているのではないでしょうか。どんなときにも、常に主を待ち望む、見上げるという、主とみこころに対する受動的な態度をとり続けていればその力の供給も恒常的であるというのが信仰の法則です。
いつでも、主のもとに駆け込むということが、私たちの毎日に繰り返されていくなら、やがてそれは私たちの常の状態となり、それが私たちの在り方として身についていくのです。
特別な時にもそうでない日常にも、この力は必要であることをうなずきへりくだって、私たちが主を待ち望むなら、この力による保証が絶えずあることが、年間聖句に表されているのです。

今朝の週報には、個人の年間聖句の紹介を掲載しました。
私には、神さまがUコリント4章を示してくださいました。
教会の年間聖句とセットで、章全体を今年の聖句としていただきました。
これらを与えられたときは、体調を崩してはいたものの、年が明けて判明する病気のことなど、まったく想像もしていませんでした。
しかし、今年になってから、毎日味わうこれらのみことば…「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。
途方にくれていますが行き詰ることはありません。」「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」によって、この半月の日々、支えられ希望と力を与えられてきました。皆さまがお分かちくださった、年間聖句を繰り返しながら、お一人一人のお名前を挙げて祈るとき、神さまのお約束への期待に心が躍るような思いがします。
おわりに
この年、私たちの教会に特別に与えられた年間聖句をとらえ、ここにあらわされている恵みを、ともに「主を待ち望む者」として体験しながら、成長させていただきましょう。