| 2011年5月22日 『イエスの御名』 |
| 使徒の働き3章1〜16節 主イエスの福音を伝えた人々〔3〕 はじめに 聖霊降臨によって、教会が誕生しました。エルサレム教会は、できたばかりでしたが、先週2章で学んだように、交わりや伝道活動においてめざましい前進をしていました。 また、彼らの働きを通して、聖霊による奇跡的な出来事も多く起こりました。 お開きしている、美しの門でのいやしの出来事もその一つです。 しかし、この奇跡を巡ってペテロの証言、ペテロとヨハネの留置へと続き、教会に対する迫害が始まっていきます。 そのような契機となったこの出来事と続く最初の迫害の記事には、度々「御名」という言葉が記されています。 イエスさまはかつて、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」(ヨハネ16:23,24)と言われ、続いて「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです」(ヨハネ16:26)と予告されました。 それが、十字架の死とよみがえり、昇天、聖霊降臨という主の御業によって効力を発したのです。 今朝は、この箇所から、私たちが信じるイエスさまの御名について知らせていただきたいと願っています。 〔1〕御名を持っている者 祈りのために宮に来る人たちからの施しを求めて、毎日「美しの門」という宮の門に運んで来てもらっていた足の不自由な男、彼が、ペテロとヨハネにも施しを乞うたとき、6節で、ペテロは彼に対して「私にあるものを上げよう」「イエス・キリストの御名によって」と言って、癒しの奇跡を行った。このことから、ペテロたちは、イエスさまの御名を持っている者だったと言える。 御名を持っている者はどのような人か、ぺテロの姿を見つめよう。 *祈りの生活を続けていた(1,2節) 毎日午前9時と12時と午後3時に祈るのが、当時のユダヤ人の習慣でした。使徒たちはこの良い習慣をそのまま踏襲していたようです。 そして、この出来事は午後3時の祈りのときに起きた。 *主の心をもって見ることができた(3〜5節) ペテロもヨハネも、面倒なことだと目をそらさず、施しを求めて来た人を「見つめ」、そして、「私たちを見なさい」と答え、愛をもって真剣にその人と関わることができた。彼らは、主の心で人を見つめることができた。 足の不自由な人は、何の進歩もない、向上もないと思われるような日々をすごしていたのではないだろうか。 人間としての尊厳をも認められないような、生きがいを感じることのできない生活の中で、彼はどれほどそこからの救いを願い続けてきたことだろう。 「救われる」とは、あってはならない状態から、あるべき状態に戻されるということ。 例えば、燃えている建物の中から外へ、おぼれている海から船の上へというように…。 ペテロとヨハネには、彼が救われるための本当の必要がわかった。それは、「私にあるもの」つまりイエスさまの御名による救いだった。 *信仰と恵みの事実を確信し証しした(6節) 「金銀は私にはない」というのは、ペテロやヨハネが貧しかったという意味ではない。お金がないからその代用としてイエスさまの名を使ったのではなく、物質的なものを否定し、そのようなもの以上のものを私たちはもっていると言ったのである。 彼らは、自分たちが主から受けたもの、確かに知っている主ご自身とその恵みに深く満足していたから、「私にあるものを上げよう」という証しができたのだろう。 「イエス・キリストの御名によって」とは、イエスさまご自身によってということ。彼らは、自分自身の救いの信仰とその恵みの事実を常に覚え、他に証しすることができた。私たちの救いが過去の体験に留まらず、日々自分の喜び、確信、歩みとなり続けているとき、「私にあるもの」として、主の福音を伝えることができる。 〔2〕御名を信じる者 このような彼らに導かれて、足のきかない人は癒しを体験した。イエスさまの御名を信じる者の姿、変化を見て行こう。 *強くされ立ち上がった(7〜9節) 御名と信仰とは、発電所と送電線の関係にあると表現した先生がおられた。つまり、御名は、それを信じる信仰によって力を発揮するということ。 ペテロは手を貸したが、彼が立ち上がったのはこのような信仰の力による。イエスさまの御名の力とその人の信仰が結びついたとき、救いのみわざがなされる。 *主に従う歩みへと前進する(9節) 彼は、喜びに満たされて聖なる宮に入っていった。ここに、恵みが届いた人の特徴が現されている。 救われた私たちは、神の子とされた特権を受ける者となったので、主に近づきたい、主に従っていきたいと心から願う者と変えられた。 *その存在をもって主を証しする(10,16節) ペテロによって、この人にもたらされた恵みは、彼を主をたたえる者と変え、その姿を見て皆が驚いた。 主の御名を信じて立ち上がり歩む者は、その恵みの証人として、その存在をもって証しをする者となることが分かる。 不思議な出来事を目にした人々は、ペテロとヨハネに注目している。 しかし、彼らは、主に栄光を帰し、この出来事が主の御名によることを証した。 おわりに 今朝、この記事を通して、私たちひとりひとりのうちにある「私にあるもの」、イエスさまの御名、イエスさまご自身を知らせていただきました。 この方の恵みの中に生き、そのすばらしさを持ち行く者として、この週も歩ませていただきましょう。 |