| 2011年3月6日 『知っていることのすばらしさ』 |
| ピリピ3章4〜14節 はじめに ピリピ人への手紙の背景…中略…ピリピの信者たちが、彼のもとに送ってくれた援助と励ましに対する感謝の思いをこめて、この手紙を書きました。 さて、3章でパウロは、まず、「主にあって喜びなさい」と言っています。朗読していただいたのはパウロの証しの部分で、彼は、「知っていることのすばらしさ」という言葉を用いて、キリストに出会う前と後の自分について語っています。このこともまた、「喜びなさい」という前提によって語られていることをお覚えください。 今朝は、8節のお言葉を中心に、パウロの体験を見つめつつ、彼が語っている「キリストを知っていることのすばらしさ」について学ばせていただきたいと願っています。それは、何を知ることなのでしょうか。またどのようにすばらしいのでしょうか。3つに分けて見て行きたいと思います。 〔1〕自分自身を知る 4〜6節を見ると、パウロがキリストを知る前に持っていたものがわかる。キリキヤのタルソに生まれたパウロは、あらゆる面で優れた人物だった。 生粋のユダヤ人でベニヤミン民族に属していた彼は、タルソで学んだ後、エルサレム、ガマリエルのもとで更に学びを深めた。また、パリサイ派に属して、熱心に聖書の教えを実行していた。パウロの価値観は、伝統や血統、地位や熱心な行為などにあり、彼がそれらに信頼をおいていたことが、「得と思っていた」という彼自身の言葉からわかる。 パウロは、ここで、その一つ一つすべてを、複数形を用いて「得」であったと言っている。けれども、キリストを知ったことによって、それらを単数形で「損」あらわしていることに、深い意味を感じた。 彼が、主を知らないときの自分が、実はどんなに愚かであったかを知らされ、自分が価値あることとしてきたものを、全部まとめて「損」と表現していることが心に留まった。 イエスさまとであったときのパウロは、クリスチャンを迫害(殺してしまう)ために、ダマスコへ向けて旅をしていた。 その途上で強い光に打たれて倒れ、イエスさまの声を聞き、復活のイエスさまと出会った。 クリスチャンを迫害していたパウロの名を呼び、主は「わたしを迫害するのか」と言われた。 この個人的な語りかけによって、彼は主の前に自分自身がどんなに罪深い者であるかを知ったのである。 そして、それに苦悩し悲しみ、主の前でそれを素直に認めた。私たちの救いの信仰に立つという経験は、この主の前で砕かれ、降伏し、悔い改めるということが重要。なぜなら、そこでしか、主の愛と恵みと赦しを体験することができないから。 〔2〕主ご自身を知る パウロが記している経験の中に、主ご自身を知ったということが読み取れる。彼は「私の主」と言っている。 ダマスコ途上でイエスさまから個人的な語りかけを受けて、パウロは主を「私の主」と呼ぶことができる関係に入れられた。 この経験を、他の聖書の箇所で、パウロは「主が私にも現れてくださった」「私にこの上ない寛容を示してくださった」というような表現をしているが、「主を知っている」というのは、イエスさまを人格として知っているということであり、面識があるという、キリストとの人格的な交わりからくるすばらしい知識である。 〔3〕人生の目標を知る 彼が知った人生の意味、目標についてあらわされている。キリストと出会った以後のパウロの目標は、イエスさまご自身となった。 パウロはイエスさまを獲得し、その復活にあずかるために走り始め、走り続けた。「この一事」「ひたむきに」「一心に」などのことばにパウロの熱心さが表わされている。 イエスさまを知ったことによって、自分と物事を正しく見る目が開眼された私たちは、主を仰いで進むほどに、更にイエスさまのすばらしさを知り続けるという道を走るものとされた。このように、もっと深い意味でキリストを得たいという欲求は、そもそも人の肉が欲しがるものではない。それなのに、こんなにもイエスさまご自身を渇望することの背後には、12節「キリストが捕らえてくださった」という恵みがある。 この聖句は、イエスさまが私に栄冠を得させようとしていてくださるということ、そしてそのために全面的にバックアップしてくださるということを約束している。だから、私たちはイエスさまに信頼して従ってゆけばよいのである。 「うしろのものを忘れ」とは、前進することを妨げるすべて過去の失敗、罪、批判、過去の栄光、過去の勝利など、に固執しないということである。 以前、研修会のセミナーの中で、聖書的カウンセリングの学びをしていたとき、講師が、自分を過大に見積もる青年が多いということを語っておられた。多くの若者たちが仮想的有能感や自己神化という軽い人格障害を持っているといわれているらしい。彼らは、本当なら自分はこんなものではないはず…常に自分は正しく、他が全て悪い、間違っている…というように考えるという。内側にあるあふれるようなエネルギーを正しく発散させることができず、自分のあるべきところ、めざすべき目標を見出すことができず、叫びをもって生きているのは、若い人ばかりではなく、主を知らない罪人の姿にほかならないと思う。 しかし、パウロのように主を知った者は、生きる意味、理由を主によって見出し、最高の目標であるイエスさまをめざして走ることができるのである。 おわりに 今朝、私たちひとりひとりを、この「主を知っていることのすばらしさ」へと導いていてくださいます。 ともに、この主からのメッセージを受けたひとりひとりが、このすばらしい知識に進むことができるよう、心からお祈りいたします。 |