礼拝メモ

2010年9月5日   『わたしが道であり…』
ヨハネの福音書14章1〜6節

はじめに
この箇所は、13章から始まっている、イエス・キリストが十字架の死の直前に、弟子たちに語られた告別説教のような教えの部分です。
この14章においては、天国と聖霊についての説き明かしがされています。今朝は、この箇所から、主が語られた「道」について知らせていただきたいと願っています。

〔1〕主イエスが示された道
このときの弟子たちの混乱・不安…主の弟子として(対 ユダヤ人指導者)、13:21 仲間から裏切る者が出ること・ペテロの裏切りの予告・主が彼らのもとを去っていかれることを聞かされたことによる混乱・不安・恐れ。
そのような彼らに、まず、イエスさまは、彼らが歩むべき道を示し、そこへ進むように命じられた。(1節)
6節は、主の自己紹介の言葉。ここにも、私たちが歩むべき道が、明示されている。
「わたしが道であり」…わたしだけが道でありという意味。主は、ご自身が道そのものであり、唯一の道であると語られた。
人は、みな罪人。多くの人は依然として、その進むべき道を見失い、この罪の現実の中に生き続けている。ある人々は、漠然と様々な道イメージし、捜し、そこを通って幸せにたどり着こうとしている。
それらの一つ一つを追求し手にしようと努め励むこと自体は良いことであるかもしれない。しかし、それらの道に確かな幸いの保証はない。
なぜなら、罪の解決がないなら、それは不幸や悲劇をもたらすもの、孤独や・空しさに行き着くものであるから。
このようなすべての人に対して、主は、歩むべき確かな道を、ご自身のうちに示しておられる。
道について語ったり、道を示してきた人は数多くいるが、しかし、自分をさして、「わたしが、わたしだけが道である」と宣言されたのはイエス・キリストだけである。それは、神さまの愛によって、主がその道を備え、道そのものとなってくださったから。

〔2〕主イエスが辿られた道
4,5節をお読みします。・・・
イエスさまに向かって、弟子のひとりトマスは主が「わたしの行く道」といわれた道がわからないと質問した(4,5節)が、私たちも、この主が辿られた道について知らせていただこう。。
私たちの創り主である神さまは、聖いお方。この汚れない神さまと、罪ある人間との間には、大きな隔たりがある。
しかし、この近づくことのできない隔たりを、乗り越えさせてくださるために、イエスさまが、辿ってくださった道がある。
それは、主が、辿られた苦難の道。主は人の姿をとって地上に来られ、十字架で死に葬られ、三日目に甦られました。
こうして、イエスさまが、私たちに神の愛を示し、また本当の愛に生きる道をご自身がまず歩んで、私たちに示してくださった。

〔3〕主イエスが開かれた道
四国・徳島に暮らす私たちにとって、架け橋は生活になくてはならないもの。
本州と四国をつなぐ大橋、吉野川にいくつもかかる橋など…。架け橋とか、橋渡しという言葉を使うとき、それは、川や海にかかる橋だけのことではなく、人格と人格の間をつなぐ何かを指して用いることがあるだろう。キリストが開いてくださった道は、まさに、架け橋と言える。
*神と人とを繋ぐ道
6節「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とある。
キリストは、私たちの罪を負って十字架で死なれ、私たちの罪の贖いをなしてくださった。そして、三日目に復活して、神に近づく道を開いてくださった。
このキリストによってのみ、私たちは、罪によって越えることのできなかった神さまとの隔たりを、主を通して乗り越え、神様に近づくことができる。現在的に、神さまとともに生きる者になることができるよう、主が架け橋となってくださったのである。
*天の住まいに至る道
2,3節で「場所を備えにいく」と言われている場所とは天国のこと。キリストが開いてくださった救いの道を通って、すなわち、キリストを救い主と信じて踏み出す者に、主は、ここで語っておられるように、天国を用意していてくださる。だから、キリストが開いてくださった道は天の住まいに至る道である。人は、必ず死ぬ。その時、その人の霊魂は、どこに行くのだろうか。もし、罪を持ったままで最期を迎えるならばその人の霊魂は永遠の滅びに至る。しかし、キリストは信じる者のために、復活して天に昇られ、私たちのために天の御国を備えてくださった。
「わたしの父の家」…それは、父なる神とともにいる場所
「すまい」…それは、帰るべきところ、安息を与えられ、憩う場所
しかし、罪あるままでは、神さまのもとに帰ることができない。しかし、イエス・キリストの贖い(代価を払って買い戻す)のゆえに、この道である方を信じるだけで、やがて帰るべき住まいで永遠に憩うことができる。
*人と人とを繋ぐ道
主が開いてくださった道は、人と人とを繋ぐ道だとも言える。
家族の中の、親子の間に、夫婦の間に、また社会生活の中での職場での人間関係や友人関係などにおいて、もっと広くいえば、国際間にも、互いの心の交流のための橋が必要であると感じる。
この架け橋を、人は、精神の修養や互いの努力、理念や思索・科学の中に、これらを見い出そうとするかもしれない。それも、ある意味では、一つの橋と言えるだろう。しかし、聖書は、キリストが開いてくださった道、そこにあらわされている愛だけが、人と人を結ぶ。「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)と主が言われたように、主に愛されていることを知り、互いに愛し、尊敬し、助け合う心こそ、人間関係を円滑にし、幸いにつなぐ道である。主はこのような、人と人とを愛でつなぐ道となってくださった。

 おわりに
  イエスさま御自身が示しておられる道、主が辿りお開きくださった道、唯一の道であるイエスさまの救いの恵みに、生きることができますように。