礼拝メモ

2010年8月29日   『主から目を離さずに』
マタイの福音書14章22〜33節

主イエスに出会った人々〔15〕
はじめに
先週お開きしました、「五千人の給食」の直後、人々イエスさまを王としたいと望みました。
しかし、イエスさまは、彼らが考えたような政治的なメシヤ(救い主)として来られたのではなく、人々を罪から救うために来られた方です。
主は弟子たちを、奇跡を見て興奮している群衆から引き離して教育しようとされ、強いて舟に乗せ、群衆を解散させて、ひとり山に登られました。
イエスさまが、静かな所にひとり退かれるということは、神との交わりを意味しています。
このようにして、向こう岸を目指した弟子たちは、一晩中、強い逆風に悩まされ夜明け近くまで過ごしました。
今朝は、嵐に疲れきった彼らに近づかれたイエスさまとペテロの会話、水上歩行の奇跡の記事から、私たちを導いてくださる主はどのようなお方であるかを、そのお言葉から見出だし、信仰者の歩みについて知らせていただきたいと願っています。

〔1〕近づいてくださるお方 (25〜27節)
*ふさわしいときに
人間の限界にきたときには、神の力と恵みが表わされる最も良い機会。イエスさまは、祈りながら、弟子たちのためにこの時を待っておられたのだろう。彼らが嵐の中で、自分の弱さと限界を実感するまで。そして、最も良いときに弟子たちに近づいてくださった。
*主にしかできない方法で
主は、湖上で嵐に翻弄されていた弟子たちの所に水の上を歩いて近づき、声を掛けられた。「わたしだ」とは、主が燃える柴の場面でモーセに語られたのと同じように、ご自身を神としてお示しになった言葉である。

〔2〕「来なさい」と命じてくださる方 (28、29節)
近づいてこられたイエスさまのお姿に脅えながらも、ペテロはこのように言った。
これは、衝動的な言動が目立つ彼らしい言葉ではあるが、同時に、今、自分に近づいておられる方が主であるなら、自分もこの方によって、水の上を歩くことができるという彼の率直な思いも表われている。
そのような彼の心わご覧になり、主は、「来なさい」と言われた。ペテロはその主の言葉に従って水の上を歩くことができた。
私たちの主は、私たちが主を見て、主を信じ、絶えず主のほうに進むことを命じてくださる方である。主に信頼して立つ者は、イエスさまと同じように歩むことができると、水の上を歩くペテロの姿は証ししている。

〔3〕手を伸ばし、つかんでくださる方 (30・31節)
全能の主の力によって、水の上を歩くことができたペテロは、イエスさまを見つめている限り、水の上を進むことができたはず。
しかし、彼は「風を見て、こわく」なり、沈みかけてしまった。しかし、ペテロが、助けを求めると、主はすぐに手を伸ばして彼をつかんでくださった。
弱く、失敗しそうになる者であっても、「主よ」と再び主を見上げるなら、主は、その人をつかんで救い出してくださる。
沈み始めたペテロが、「なぜ疑うのか」と主に指摘された現実を認めて、主よ、と叫んだように、「私にはあなたが必要です」と、主に助けを仰ぐことが重要。そうするならば、「すぐに」と書かれているとおり、主は近くにいて私をつかんでくださる。  32、33節
ここに「ふたり」とある。イエスさまとともに舟に戻ったとき、嵐は止んだ。
ペテロもまた、主と同様に水の上を歩いたわけだが、弟子たちは「イエスを拝んだ」と書かれている。主によって主とともに歩む者の生涯を見つめている人々には、主のすばらしさが見えるようになる。

 おわりに
  22節の「強いて」という言葉が心に留まりました。この時、イエスさまが弟子たちが舟に乗るようになさったのです。私たちクリスチャンは、問題・課題に遭遇することを免除されているのではありません。イエスさまの深いご意志のもとに、嵐の只中に置かれることがあります。主によって、強いてそのような舟に乗り込ませられることがあります。
弟子たちにとってこの嵐は、イエスさまに従ったがゆえに遭遇した嵐と言ってもよいでしょう。
しかし、その中で、主は、ペテロにそうであったように、私に、さらに近づき、私の腕を掴み、主を見続けて歩むこと、そして「たしかにあなたは神の子です」と言えるように主ご自身を体験させてくださるのです。
私たちは、このような体験を通して、問題に対する勝利だけでなく、信仰の成長を与えられつつなお進んで行くことができるのです。 →ヘブル12:2,3 
この週も、主のみこころの道を主とともに主から目を離さずに歩ませていただきましょう。