| 2010年8月22日 『みわざが なされるとき』 |
| マルコの福音書6章31〜44節 主イエスに出会った人々〔14〕 はじめに イエス・キリストの伝道期間を、人々の反応という視点から分けると、洗礼からガリラヤ帰還までの約1年、帰還からこの記事までの約1年半、そして、この五千人の給食からエルサレム入京までの約1年の3つになります。 つまり、この奇跡は、人々を対象とした伝道活動のクライマックスであるとともに、弟子の訓練に当たられる転機となった出来事でした。 主のガリラヤ伝道によって、人々は、この方こそ来るべきメシヤの先駆けか、あるいは、メシヤその人ではないかという期待を持ち始めていました。そんな中、この奇跡が行われたので、群衆の興奮が熱狂的頂点に達していきました。 今朝は、そのような、大いなるみわざが成されたこの箇所から、主がおっしゃったお言葉を中心に見ながら、それを体験する恵みを知らせていただきたいと思います。 〔1〕問題に対して弟子たちが考えた方策 主への期待をもちながら、主を追いかけ、集まった多くの群衆。時刻が遅くなり人々が空腹を覚える時間となった。 場所はへんぴな所。そのような状況で、人々に食物を与えようと考えると、多額(200デナリ=労働者200日分の給料)の費用がかかると考えられる状況。 弟子たちは、自分の世界、範疇での方策を並べたてていた。群衆を解散させて、めいめいで買うようにしようと考えた。 現実は、200デナリあったとしても、満足に食べさせるには足りない。 人々の必要に答えるためには、お金が必要。これが弟子たちの中にあった原理。 彼らの目と心は、現実を現実としてだけしか見ていなかった。それが、問題に対する弟子たちの方策でした。 〔2〕みわざのときに主が与えられた課題 しかし主は、弟子たちに対して、一見不可能に思える課題を与えらた。 37節 「あなたがたで」担うように、という課題。 彼らにこの問題についての責任を委ねられた。それは、弟子たちへの大きな期待を表わす言葉だと感じる。特に、彼らの手から、人々に上げなさいと言われたことが、心に響く。 困難の状況の中で、課題を前にして、主はしばしば、「あなたがたが しなさい」と私を見て語られるお方である。 弟子たちは、彼らの計算ではじき出した、200デナリという数字を使って、イエスさまに質問するが、主は、パンがどれだけあるかを確かめるようにと言われたのです。 パンが5つと魚が2匹…他の福音書の並行記事には、少年が持っていたお弁当であることが書かれている。 パンは大麦でできた、小さなパンケーキかビスケットのようなもので、魚は小魚はいわしくらいのものだったらしい。 それを確かめて、「パンが5つです。魚が2匹です」と言った彼らの答えには、たったこれだけですから無理ですといわんばかりの、戸惑いと無力感が溢れているように思う。 問題課題に直面するとき、自分から見た私たちも、この少年の小さなお弁当のように、ちっぽけで、何の足しにもならないと思う者であるかもしれない。けれども、この時、主は、彼らに「確かにこれだけなので無理です」と言わせたくて、どれくらいありますか。ときかれたのではない。 現実を知ってその上で、主がおられるところでそれを確認し主に告げるとき、主がご覧になるのは、パンの量や魚の数や大きさではなく、その現実の中にありながら、彼らの、ご自身への信頼である。また、続いて言われた。 草の上に座るとは、寝そべることを意味する。ユダヤ人はそうやって食事をしたから。小さなお弁当しかない状況で、主は、5千人以上の人々に食事の体勢をとらせなさいといわれた。主は、私たちに豊かな恵みを受けるための準備を命じてくださる方。私が養うから…という備えをもって、命じてくださる。 マタイの福音書の記事では、主が少年のお弁当を「それをわたしのところにもって来なさい」と言われたと記されている。 そして、41節・・・のように、みわざを行われた。 「パンを裂き」…1回きりの動作を表わす原語が使われている。 しかし、それに対して、「与えられ」の与えるという言葉は、継続する行動を表わしている。 次から次へと、そして弟子たちの手に与えられ、彼らに配らせなさった。 無に等しい、何の足しにもならないような食物だけを手にしていた彼らに、まず、37節で「あなたがたで上げなさい」といわれたことが、まさに、そのお言葉のとおりになった。 またここに、主にささげられたものは、どんなわずかなものでも、豊かに用いられることが証しされている。 〔3〕みわざのあとに主が命じられたこと 最後に、パンと魚を祝福し裂いて、弟子たちに与え、それを人々に施された主がその後に言われた言葉に目を留めよう。 ヨハネの福音書の記事には、「余ったパン切れをひとつもむだに捨てないように集めなさい」と命じられたと書いてある。 主がみわざをなされるとき、その恵みはひとりひとりに十分で、溢れるばかりのものである。私たちの生涯に生じる様々な問題課題の中で、私たちが信仰によって、主の手に頼るとき、その問題の解決そのものだけでなく、そのみわざがなされたあとには、主の真実と溢れる恵みを知らされ、信仰によって歩むということに更に成長させていただくことができる。 おわりに 主は、あらゆることを通して、ご自分がどのようなお方かを私たちに示そうとしておられます。 その方を経験すると、私たちは、さらに主と近く主とともに歩む豊かな生涯を進む者とならせていただくことができるのです。 この週も、主と近く、信仰によって歩みましょう。 |