| 2010年8月15日 『収穫の主に祈りなさい』 |
| マタイの福音書9章35節〜38節 はじめに 「主イエスに出会った人々」というシリーズではありますが、今朝は、誰か特定の個人ではなく、「イエスはすべての町や村を巡って」とある、広い範囲の人々という観点で、13回目とさせていただきたいと導かれています。 主が、人々をどのようにご覧になっていたかが、この短い数か節に凝縮されているように思います。 ご自分の足でそこを歩き、ご自分の目でご覧になったイエス様のおことばから、私たちへの主のみ思いと、私たちが持つべき、信仰の視点・視野というものを知らせていただきたいと願っています。 〔1〕主の働き マタイの福音書9章中に記されているキリストの助けを要した人々…2節 中風の人、10節 取税人や罪人、18節 会堂管理者、27節 ふたりの盲人、32節 悪霊につかれて口のきけない人、36節 群衆など。 これらの人々は、他に記録されている数多くの人々の中の、ほんの一部に過ぎなかったが、主は、これらの人々の要請に対して、最も決定的な解決をお与えになったことが見られる。それを総括する言葉が、35節。 「すべて」「あらゆる」という言葉に、主が制限の中で、可能なすべてをなさったことを表わされていたる。 主は、成しうる限りを成しておられた。イエスさまの人々への愛と熱意に満ちた働きと御業がこの一節に、凝縮されているようだ。 〔2〕主の御心 主は、人々をどのように見ておられたのだろうか。36節 主は、群衆を「羊飼いのない弱り果てた羊の群れ」として、また37節からわかるように、「刈り入れを待っている畑」としてご覧になっている。 群衆を見られたイエスさまのお心は、どんなふうに動いたのだろうか。 「弱り果て」…「皮を剥ぎ取られる」、「倒れている」…「打ちのめされる」、強い意味を表わす単語。 このような彼らを見て、イエスさまは「かわいそうに思われた」。この言葉も強い意味。 「弱り果て」「倒れて」いる人々、世界をご覧になった主の反応もまた、とても強烈なものである。「かわいそうに思われた」…「一緒に苦しむ」という意味を持つ言葉で、強調されている。 〔3〕主の命令 37・38節 「そのとき」という語が、イエスさまが抱かれた切迫感を表わしているようだ。 成しうる限りの働きを終えて、なお、悩み倒れている群衆をご覧になったとき、主は「祈りなさい」と弟子たちに言われた。これは、命令であり、祈りへの促しである。 祈りによって、求められるべきは、「働き手」です。この「送ってくださる」も、強力な動詞。 主の救いを伝える人、主の恵みを証しする人、その畑で、刈り入れのため、汗を流して働く人を主は必要としておられる。そして、私たちが祈るなら、そのような人々が起こされる。 おわりに 主のご愛によって救われた私たちは、今なお、弱り果てた羊のような人々、刈り入れを待つ畑である世界を、主のような目と心で見ることができているでしょうか。 数え切れない多くの人々が、彼らを罪から救うために十字架でいのちを捨ててくださったイエスさまのことを、そして、そこに表わされている神様の深いご愛を知らないいままで、きくことが許されないままで、今も生きているのです。 また、目に見える課題や、外側からはわからない心の奥底の問題に、解決を得る道が示されている聖書に触れることができないままでおられるのです。 暴動や闘争の中にあるどこかの国や、未開の地というような遠くの村を見つめていますか。 もちろん、そのような方々のところに出て行って、宣教の働きをしなければなりません。 しかし、私たちのごく近くに、「弱り果てた羊」がいることを主は指さして、そして祈りなさいと言っておられるのです。 このように、いたる所から聞こえる人々の心の叫び、求めを、聞く者でありたいです。本当の平安への切望をもって、刈り入れを待っている畑を見渡し、収穫の主に祈る者であらせていただきましょう。 そのように祈るとき、主が、私たちひとりひとりを必要としておられることを、私たちは知るでしょう。 私に託されている方々の存在に気づき、主がご覧になったような深い愛をもって、人々を見つめ、その人たちのために恵みを証しする働き手とならせていただきましょう。 |