| 2010年8月8日 『主は、それをした人を知ろうとして』 |
| マルコの福音書5章25〜34節 はじめに この記事には、大勢の人が登場します。人々の群れ、そして、そこにやって来た、会堂管理者ヤイロ、このヤイロの家に行くために歩き始められたイエスさま、その周りには、また、後ろには、弟子たちと群衆が押し迫るようについてきていました。 その人々の中に、25節「ところで、女がいた」と描かれている、病を持った女が紹介されています。 続いて彼女が多くの群衆の中でイエスさまの着物にさわり、そうすれば「きっと直る」という信仰によってその病気がいやされたことが書かれています。 そして、そのことをイエスさまが気づかれ、「あなたの信仰があなたを直した(救った)」と言われました。 この箇所に、「感じる」「知る」「気づく」という言葉がいくつか出てきます。今朝は、これらをキーワードに、信仰の学びをさせていただきましょう。 〔1〕女が気づいていたこと @なおしていただかなければならない自分だということ 25,26節…彼女は、律法によれば汚れた病とされていた病気だった。 また、人に傷つけられ、持っているものさえなくなっていた。 切実な自分の問題、実際的な、そして内面的な問題に、彼女は気づいていた。 そして、それを、直していただかなければならないと知っていた。 つまり、自分の無力を知り、癒しへの強い願いをもっていた。 Aなおしてくださる方の存在 27節…その方がおられることを耳にし、その方にさわり、 28節…それだけでも、きっと直ると信じていた。彼女のこの思いと行動は、私たちに大きな励ましを与える。 徹底的に無力を知らされてもなお、「この方」と、すがるべき方に気づいて、「きっと直る」と信じるなら、み業を体験することができる。 どんな絶望状態でも、主を信じて、主に触れるとき、本当の解決が与えられる。 Bいやしと救いの実現 29節…感じ、 33節…自分の身に起こったことを知り、 34節…主の宣言を聞き、さらに実感した。 〔2〕主が気づかれたこと 30節…多くの群衆の中の彼女の存在に気づかれた。 ご自分から、力が出て行ったことに気づかれた。そして、その相手が誰かを問われた。 女もイエスさまも、互いに気づき、感じた。 このような意味で、イエスさまと彼女は繋がり、一つになった。同じ世界にいて通い合う関係になった。 31節…しかし、弟子たちにはわからなかった。 同じところに身を置いて、話をしていても、その心の向かうところ、見つめている世界、共有している空間が違うと、まったく通じない、ちぐはぐなことになる。 群衆、弟子たち、ヤイロ、そしてこの女が、実際には、入り混じり、進んでいく道すがらであったが、信仰の目で見るなら、イエスさまとの距離にはそれぞれの間隔がある。 彼らは、ひとつのことでは共通していた。それは、イエスさまが何かできるお方であると知っていたこと。 しかし、女だけは、今、この場で直していただきたいと思っていた。 私たちも、主が何かを、否、何でもしてくださるということがわかっていても、彼女ほどの切迫感をもっているだろうか。 今、魂のうちに、イエスさまに直していただかなければならない問題があると感じているか。 そして、それを、本当に、直していただかなければならないと願っているか。 それを癒してくださるのは主でだけであると、信じて、主に近づいているか。 主は、そのような者に気づき、私たちの信仰を喜んでくださる。 主は、心から主に信頼して近づく私たちの姿に気づかれない方ではない。 ヤイロの家に向かう、せわしさの中で、押し迫る群衆にもまれながら、「きっと直る」と信じて、その衣に触れただけの女の存在、そして、彼女の求めと信仰を知ってくださり、目を留めて、彼女を救い癒してくださったように、私たちをも、知ってくださる。 34節…「安心して帰りなさい」とおっしゃって、平安を保証し、その喜びに満たされて生きるべきところへと遣わしてくださる。 おわりに 今、私たちは、どのようないやしを必要としているでしょうか。 私が、私の「救い」「癒し」の必要に気づいているなら、それを満たしてくださるお方は、私を愛してくださるイエスさまであるということを知り、信じて立ち上がらせていただきましょう。 イエスさまは、それをした人を知ろうとして見回しておられました。 彼女に気づき、彼女が更に、主に近づくよう招いてくださった主に、私たちも信仰をもって近づかせていただきましょう。 |