| 2010年8月1日 『こころのドアをあけて』 |
| ヨハネの黙示録3章14節〜20節 はじめに 今朝の聖書の箇所は、ラオデキヤ教会に宛てられた手紙です。 差出人は14節にあるように、主イエスさまです。このラオデキヤの教会への手紙は、また、今の時代の人々、終わりの時代の私たちへの、真剣な手紙なのです。 今朝は、この箇所から、主のお心、招きを知らせていただきたいと願っています。 〔1〕あなたを知っている ラオデキヤは、豊かで賑やかで、栄えていた町。 しかし、イエスさまからの手紙は、とても厳しいものだった。(15・16節) ここで、主は、「わたしはあなたの外側を知っている。けれどもそれ以上に、あなたの内側、心を知っている」とおっしゃっている。 目に見える教会の姿、ひとりひとりの姿と、イエスさまからご覧になった姿とは違っていた。 主は、ここで、主を信じること、愛することについて、熱いか冷たいか生ぬるいかということを問題とされている。 人間は頭脳と心(魂)と身体で成り立っている。その中心である心(魂)が、人の値打ち、価値の決め手となる。そして、この観点から、イエスさまは、あなたは「生ぬるい」状態ではないのか、と指さしておられる。そして生ぬるい者を、「わたしの口からあなたを吐き出す」と言っておられる。 〔2〕あなたの心をみつめなさい 17節で主は言われる。「あなたはこれでいいと思っているかもしれないが、実は、自分の本当の姿、自分の実態、自分の本質を知っていない」どんなに「みじめ、哀れ、貧しい、見えない、裸である」かを知らないと。 私たちの命や力や知恵の根源は主ご自身にある。(14節) 樹木が繁茂した姿をもって、その足元の土の下で、水源や養分の源に向かって根を張っていることを証ししているように、私たちが私たちの命と力の源である方にどう繋がっているかということは、実は、はっきりと表わされている。 命の根源である主に、信仰の根を確かに下ろしていないなら、私たちが一番必要としている力や知恵を供給されることはない。 信仰の根を、根源である方に降ろしていなければ、人生に吹き荒れる嵐や恐ろしい風や雨に打たれると、その勢力に耐えられなくて、へし折れ、倒されてしまう。 主は、私たちに主が見ておられるように自分自身を見なさいと言っておられる。 外側からはわからなくても、実は内側に問題があるために、実は「みじめで、哀れで…」と言われたラオデキヤの人たちのように、私たちの心の中は、実はどうなのかを、見つめるようにと促されている。その理由は、18節・19節にある。 私たちをいやす道が主にある。そして、私を愛していてくださる。私が、自分から主のもとに進むことを願っていてくださる。 だから、私たちに自分を見つめ知りなさいといわれる。 では、私たちが実は哀れな自分であることを知り、私は、神さまに繋がっていない。 あるいは、クリスチャンであるけれども、その根は強く張り伸ばされていない。と示されたならどうすればよいだろうか。 〔3〕あなたを待っている 最後に、あなたを待っているというメッセージが書かれている。(20節) 主は、あなたが心の戸を開けるなら、わたしがあなたの心に入って、ずっと、あなたの心の中心となると言っておられる。 「戸をあける」とはどうすることなのか。それは、主に頼らずにがんばっている自分、私が正しい、私が中心だと自分の権利を振り回していたような私であることを主の前に認めること。また、このような悔い改めと信仰告白の経験をもっているクリスチャンであっても、「実は、あなたは…」と、主から言われるような状態であることを知らされたなら、同様に、そのことを主の前に明け渡してお詫びすること。 私たちの人生を車の運転に例えるなら、いままで自分で握り締めていたハンドルをイエスさまにお渡しし、イエス・キリストを心の中心にお迎えして、みことばに従う生活を始めますと決心することである。 おわりに 「あなたを愛している、だから、本当の自分の姿を知りなさい。わたしはあなたのすべてを知っている。そして、あなたの心の戸の外に立ってあなたが戸をあけるのを待っている」といわれる主の、ノックの音が、その静かな御声が今朝おひとりひとりの耳に届いたでしょうか。 子どものころ、よく歌ったさんびかがあります。 「心の戸の外に立ってるイエスさま あけてとやさしく呼びかけてます…」という歌です。 そして、心のドアのノブは外側には、つまりイエスさまが立っておられるほうにはついていないと教えてもらったことを覚えています。 イエスさまは、強引に開けて踏み込んでこられるような方ではなく、私たちが、イエス様を喜んでお迎えすることを待っておられるのだと。 私たちが、見つめ、知らされた自分がどのようであっても、今、戸をあけるなら、主は入って私たちの中で生きてくださるので、私たちは喜び、主とともに進む者とかえられるのです。 救いの喜び、罪に勝ち続ける喜び、イエスさまに似る者に成長する喜びを持ちたいと願い、心のドアをあけて主をお迎えすることができますように。戸の外でまっていてくださる主にお応えさせていただきましょう。 |