| 2010年7月18日 『主が、どんなに大きなことをしてくださったか』 |
| マルコ5章1節〜20節 はじめに 群衆をさけて弟子たちだけと時を過ごそうとなさったイエスさまのご様子の記述が始まっています。 主は、湖の東岸、「ゲラサ人の地」に退かれました。 この場所は自然の洞窟が多くあり、墓場として使われていた、人々の近づかないような場所でした。 今朝は、この記事から、主に出会い救われた者が、どのように変えられるかということについて、見て行きたいと願っています。 〔1〕主によって変えられる前の姿 イエスを迎えた人は、悪霊につかれ、狂暴な状態だった。 *汚れた霊につかれていた(2,9節) 彼の内にとりついていた悪霊の名は、「レギオン」…当時のローマの六千人部隊を示す言葉 彼のうちには、数え切れない数の汚れた霊が入っていた。 *墓場に住んでいた(2節) 彼は、正常な人間社会を好まず、墓場に住んでいた。 そこは、愛・希望・喜びのない孤独な場所。 自分自身の生き方に目的をもたず、自分が存在することの確かな理由を知らずに生きていた。 進歩や向上がなく、だんだん朽ちていくような所だった。そういう場所に、一人きりで過ごし、安住してしまっている彼の姿。 *縛りつけておけなかった(3,4節) 彼は拘束を拒んでいた。けれども、実際は、サタンの支配下にあった。 罪の悲惨な状態から人を解放することのできる人間はだれもいない。 *叫び続け、自らを傷つけていたていた(4,5節) うっぷん、怒り、やるせなさを自分や他にぶつける言動をしていた。 人の内側から湧き出し、強い力をもって荒れ狂う原因を、聖書は罪と呼び、聖書の示す真の神を離れて、不信の生活を送るかぎり、罪の支配から解放されることは出来ないと告げている。 *イエスさまを見つけ、駆け寄ってきた(6、7節) イエスさまを神の子だと認めながら、主が自分を苦しめるという認識を持っている。 →ヤコブ2:19「いと高き神の子、イエス」と告白しつつ、「私を苦しめないでください」と言っていることに、彼が悪霊に支配されていることが表されている。 〔2〕主によって変えられた姿 *主が彼に近づかれた 測り知れない愛とあわれみ、そして、測り知れないお力をもって彼に出会われた。 *支配、束縛から解放された(8節) 主は「汚れた霊よ。この人から出て行け」とお命じになった。主はサタンに対しても権威を持っておられる。 *明確な変化がもたらされた(15節) 人々がみたものは、かつてレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返って座っている姿だった。 ここに、彼の変化が、はっきりと描写されている。 *主に感謝し、従うことを願う者となった(18節) 狂い叫ぶこと、攻撃的に他や自分を傷つけることを後にして、彼は、立ちあがり、主に従うことを願い出る者に変えられた。 自分で外側を変えようとするのではなく、主に出会って、主を信じて救いのみわざを体験したものは、主によって変えられていく生涯を歩むようになる。 どうすれば、そのような変化がもたらされるのか。 それは、「イエスを迎えた」(2節)という言葉に表わされている。 この人が、主を迎えたときには、まだその変化はなかったが、主の側では、彼をあわれみ、彼を救うみわざを用意しておられた。 彼が主を迎えたのは、墓場だった。自分の罪を知らされ、恥をさらすような状況にいるかもしれない。 孤独と苦悩と混乱が満ちている場所かもしれない。 しかし、そこに来てくださった主をお迎えするなら、人は変えられる。 私たちは、どのような中で、主をお迎えしたか。 そして、そこで、私の身になされたみわざを思い、感謝する者でありたい。 〔3〕みわざの証人として 狂暴な悪霊たちから解放された人が、イエスさまに、お供をしたいと願ったのは、ごく自然なこと。 しかし、主は、その申し出を退けられた。 そして、彼に「家族のところに帰り…知らせなさい」(19)という命令をお与えになった。 彼は、家族や近親の者が住む地域に証しする使命を、主ご自身から受けたのである。 救われた私たちは、それぞれに、違った持ち場や立場を、イエスさまからいただいている。 彼は家族にとどまらず、広くデカポリス(十の町の意味)の地方で言い広めた。 この地方で、このとき救われたのは彼一人。彼の証しは20節にしか書かれていないが、この5章でイエスさまを拒んだデカポリス地方の人々が、7章ではイエスさまを迎えていることに、彼の証しの結実を想像することができる。 おわりに この週も、主が行きなさいといわれ、私たちに与えてくださった所で、「主が、私にどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか」を、感謝をもって知らせる者でありたいです。 19節のおことばを握って、この週に踏み出しましょう。 |