礼拝メモ

2010年7月4日   『私のすばらしい友』
マタイ15章9節〜16節

はじめに
今朝は、ちらしでもご案内しましたように、日本でもっとも親しまれている讃美歌「いつくしみ深き」が生まれた物語をご紹介し、その後に、この讃美歌に歌われている「すばらしい友」について、聖書からメッセージを取り次がせていただきたいと願っています。
 さて、さきほど礼拝音楽で独唱されたのは、口語の歌詞のものですが、より皆さんに親しまれているのは文語の歌詞だと思います。
この詩は「悲しみの中なら生まれたうた」といわれています。作者ジョセフ・スクリブンの物語をお読みします。
アイルランドで生まれたジョセフ・スクリブンは、25歳のときカナダに渡って、学校の教師をしていた。彼の婚約者は、水の事故で結婚式の前日に亡くなった。
スクリブンも亡き婚約者もクリスチャンだった。彼は、愛する人を失った悲しみの底にあって、亡き婚約者と自分の共通の友であるイエス・キリストを見上げることができた。
彼女が愛し、また彼女を愛されたキリスト、彼をもまた愛しておられるキリストの愛によって、彼は慰めを受けた。愛する人を失った悲しみまさる愛を実感した。
そして、彼は残る一生を、この愛の中に生きようと決意した。
 ある日、彼は故郷で心配している母親に手紙を出した。その中に自分で作った一つの詩を書いた。それが「いつくしみ深き友なる」である。
彼はその後、学校の教師をやめ、この世の名利を求めず、どんなことでも労を惜しまず、人々の助けとなるために働いた。いつも仕事着で、人の目に立たぬ生活をしていた。
 そうして、年老いた彼は、ある日、誰にも知られず、神のみもとに帰って行った。湖に注ぐ谷川のほとりに、倒れている彼を隣人が見つけた。
スクリブンの生前、彼が病気をしたときに、看護をした近所の人があの詩をみつけ、ノートに写しておいたので、彼の死後に知られることとなった。
日本ではコンヴァースという人の曲で歌われている。このようにして、「いつくしみ深き友なるイエス」は世界中に広がり、多くの人の心に慰めを与える讃美歌となったのである。
さて、今朝は、ヨハネの福音書15章の特に13〜16節から、わたしたちのすばらしい友イエスさまは、どのような「友」であってくださるかを知らせていただきたいと思います。

〔1〕自ら近づかれる友
14節 「あなたがたはわたしの友です」
15節 「わたしはあなたがたを友と呼びました」
16節 「わたしがあなたがたを選び」
私たちがどうであるか、ということの前に、主のほうから近づいてくださる友である。
14,15節の相対する表現… 「命じる」⇔友  「命じる」⇔しもべとは呼ばない これは、矛盾ではなく、本来ならばイエスさまと友という関係を持つことはできないしもべである者、命令を受けるという立場のものに、主が立場を超えて、「友」と言ってくださる恵みが表わされている言葉だと思う。
弟子たちについても、そうである。これは、十字架の前日に、主が弟子たちに与えられた訓戒の一部。召使いとしてではなく、彼らを身近に置き、一緒に歩いていくために、イエス様は彼らを選び、そして「友」と呼ばれた。
しかし、その友である彼らが、この後、一人また一人と主に背を向けて散っていくことを、この時イエスさまはご存知だった。
そうであるのに、この箇所の少し前の章には、弟子達の足を洗う主の姿が記されている。また、この少し後の記事で、イエス様を裏切り、祭司長たちに引き渡そうとするイスカリオテ・ユダにさえ、イエスさまは「友よ」(マタイ26:50)と問いかけられる。
それから十字架の上で、すべての友のために、「父よ彼らをお赦しください」と祈られた。
「わたしはあなたがたを友と呼びました」というこのお言葉をもって、イエスさまはすべての人に近づいてくださる友である。
私たちがどういう者であれ…言い換えると、私たちが何者かであるからではなく、無条件に一方的に私たち一人ひとりを「友」と呼んで近づいてくださる。

〔2〕いのちを与える友
13節 「いのちを捨てる」というのは、イエスさまだけが持っておられる、最高の愛のかたち。
そして、それを最高に表現されたのが十字架の死。
イエスさまは、私たちを友と呼んで、そのすべての友のために、ご自分の愛を示すため、そのいのちを差し出された。これは、イエスさまのいのちと、私のいのちが等しいということの証明であろう。

〔3〕保証をくださる友
第三に、イエスさまは、「保証をくださる友」である。そのことは、このすばらしい友の御言葉の中に示されている。
*9節 「わたしの愛の中にとどまりなさい」
10節 「わたしの愛にとどまるのです」
私たちには、心の居場所が保証されている。それは、イエスさまの愛の中という居場所。
*12節「互いに愛し合う」
この戒めの中にも保証を見出すことができるのではないだろうか。
それは、私たちが愛に生き、その愛が広げられていくという保証。
主との個人的な関係によって、私たちの内に、また外に、愛が広げられ、溢れ流れていく。
*16節
ここで、結実が保証されている。
主は友である私たちひとりひとりに役目を与えて、それぞれのところに置いてくださり、そこで、祝福を与え、実を結ぶという保証。

 おわりに 
この朝、「私はあなたがたを友と呼びました」と私たちに近づき、いのちを捨てるほどの愛を示して、その愛の中に招いてくださるすばらしい友に、心からお答えする者でありたいです。