| 2010年6月27日 『あなたの信じたとおりに』 |
| マタイ8章5節〜13節 はじめに 今朝お開きしているマタイ8章の前には、山上の垂訓と呼ばれる、イエスさまの数々の教えが綴られています。 7:28に「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた」とあります。多くの群衆が、イエスさまのすばらしい教えに、感動し喜びに包まれました。そして、8章に入り、1節にあるように、イエスさまと主につき従う群衆は、山から降りてきました。 そして、2節から、いくつか続いて、病の人々のいやしの記事と信仰が語られています。 まさに、山からおりた現実の場に、問題課題が山積し、また、そこでこそ働かせるべき「信仰」について、主が実際例をもって教えていてくださることを感じました。 今朝は、百人隊長の信仰とそのしもべの癒しの記事から、「あなたの信じたとおりに」と題して、私たち持つべき信仰の姿とその根拠について学ばせていただきたいと願っています。 〔1〕主の権威を認める 百人隊長…ローマから遣わされ、ローマ兵を部下にもつ将校。 当時ユダヤはローマの属国で、ユダヤ人はローマ人を嫌い、ローマ人はユダヤ人を軽んじていた。 しかし、この百人隊長はユダヤ人を愛し、彼らのために会堂をたてたりして、ユダヤ人から慕われていた。(ルカ7:4,5) また、しもべのためにも、主にお願いをするほどで、親切な慈悲深い人物であった。 彼は、「権威」について正しい理解をもっていた。→9節 彼は、ローマ帝国の権威の下にある者として、また自ら百人の部下の上に立つ隊長として、権威の何たるかを知っていた。 そして、その上で彼は、主イエスさまのうちに権威を認めていた。 8節…社会的には、何の地位も権威もなかったイエスさまに、当時の社会では権力者側にいた百人隊長が懇願し、窮状を訴え、そして、主の応答に対しても謙遜に応えている。 彼は、異邦人だったが、主の真のご身分と権威を理解し、そのお方の前に自分がどのような者かを知っていた。 「あなたをお入れする資格は私にはありません」…彼の信仰告白の言葉。 彼は、偉大な主のもとに自らを置いて、このような謙遜な姿勢となることができた。 私たちの信仰は、イエスさまの権威の下に身を置く信仰だろうか。 〔2〕主の言葉を求める 「ただ、お言葉をください」→欄外注「だだ、一言だけおっしゃってください」直訳 彼は純粋に、主と主が発せられるただ一言をいただきたいと願った。 私たちの時代にあって、主のおことばは聖書。私たちが、救いの恵みによって生まれ変わった出発のときから、この「聖書」という書物は、ただの教訓としてや、感情的に追及して読むものではなく、主との人格的な交わりとなり、みことばを拝読し、そこに、神さまご自身のみこころやご人格が表わされていることを信じ、それによって、主と語り合い交流をさせていただくことができるようになった。 そうして語っていただくことを求め、その御言葉に従うという姿勢が、信仰の営みであり、また根拠でもある。そして、そのような私たちの信仰を主は喜んでくださる。 〔3〕主の御業を信じる 百人隊長の信仰に驚嘆し、主は、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(10節)と言われた。 「イスラエルのうちにさえ」という意味で、こう言われたようです。 すべての人にいのちを与えるために来られた主は、主を取り巻くすべての人々を意識なさりながら、そのいのちを受ける条件は「信仰」であることを語るため、11・12節の強い警告を語られた。 つまり、信仰によってのみ、天の御国に入る者、神さまと永遠に共にいる者となるということを教えておられる。 8節「そうすれば、わたしのしもべは直ります」 彼は、主が言われたことは、必ず成るということを単純に信じていた。 そのことは、13節のイエスさまのお言葉「あなたの信じたとおりになるように」にも表わされている。 主の御言葉に信頼し、その成就、答えを先取りする信仰が、彼のうちにあった。 そして、このような信仰が私たちのうちにあることを、主は、見抜き、お喜びくださり、「あなたの信じたとおりに」と言ってくださる。 そして、信じたとおりに、みことばが発せられた「ちょうどその時」癒しのみ業が与えられた。 おわりに 自分自身に、また見える現象に左右されるのでなく、主の権威とみことばとその御業に全面的な信頼をもって、今週も進ませていただきましょう。 みことばを拝読し、頂戴し、それに信仰をもってお従いして、主とのいのちの交流の中に、今週も生きさせていただき、「信じたとおりに」主がなしてくださる数々を証しするものとならせていただきましょう。 |