礼拝メモ

2010年6月20日   『いのちを得るため 主のもとに』
ヨハネ5章15節〜24節・39・40節

はじめに
今朝お開きいただいている箇所は、先週の、ベテスダの池での癒しに続いている記事です。
このいやしの業が安息日に行われたことがもとで、主とユダヤ人との間に論争がおこります。
ユダヤ人たちは、主がご自身を神の御子だといわれることに怒り、殺意を燃やし始めます。
今朝は、「いのちを得るため 主のもとに」と題して、聖書に証言されているイエスさまご自身と、そのお方のもとに行く恵みについて、メッセージをいただいています。

〔1〕ユダヤ人たちの思い
ユダヤ人たちは、旧約からの血と教えを受け継いでいると自負し、律法を守り行うことが彼らの 信仰のよりどころだった。
彼らは、病人が主によって癒されたということよりも、安息日にそれ が行われたことのほうを重大とみた。
彼らは、働くことを禁ずる安息日の律法に違反して、床を 取り上げて歩いた人につめよった。
しかし、この男は、病気を治してくださった方の言葉に従っ ただけだと応えたため、ユダヤ人たちは更に怒り、その思いを主に向けた。こうして、彼らは主 を迫害し、安息日の論争がおこった。

〔2〕イエスさまによる論証
彼らに対する、イエスさまの反論、論証を見て行こう。
17節…「安息日に働いた!」と怒る彼らに、イエスさまは、父なる神様はずっと働いておられるから、わたしも働いているとお答えになった。
主は、神さまを「わたしの父」と呼んで、ご自分の神性と権威を明らかにされた。
19〜30節…イエスさまは、神さまとご自分を父と子の関係として説き、その証拠を示しながら論証された。
彼らの不信仰を指摘してつつ、御父とご自分が本質的に一つ、また働きが一つで、主のわざは父なる神に従属していることを語っておられる。
24節…、いのちとさばきの両方の権能を父なる神様から託されたことを話され、続いて、そのことを彼らが受け入れるための根拠となること(バプテスマのヨハネやモーセの証言・わざそのものによる証言・神ご自身の証言・聖書の証言)を語られた。
今朝は特にこの、39・40節の「わたしのことを聖書が証言している」という御言葉が心に留まっている。
39節…旧約聖書の中心も聖書の中心もキリスト。
つまり、聖書は、この方について証言する書であって、それが第一のものである。(聖書の統一性と言われること)
当時のユダヤ人たちにとっての聖書は、もちろん、モーセの律法を中心とする旧約聖書のことだった。彼らは、一貫してイエスさまを示しているこの聖書に近づいていた。彼らにとって、聖書に記されていること(律法)が彼らのすべてであったとさえ言えるだろう。
イエスさまは、彼らが聖書を調べているとおっしゃっている。
しかもそこに「永遠のいのち」があると思って聖書を調べているとさえ言われている。しかし、彼らは、聖書に貫かれている、イエス・キリストを知らなかった。

〔3〕いのちを得るため 主のもとに
40節…ここで、主は、そのような彼らが、その聖書が証言しているご自身を知らず、受け入れず、主のもとに来ようとしないと指摘しておられる。
彼らは聖書を学びつつ、そこに語られた救い主の約束を見落としていた。
彼らの真ん中には、目の前には、それこそ救い主がおられたのに、彼らはその方を見ることができなかった。
イエスさまがこの世に来られた本来の目的は、人々にいのちを得させること。聖書はこのいのちについて語っているのに、人々はそれを与えるために人間となられた御子イエスさまを認めようとしない。だから、いのちを持つことができないままでいるのである。
なぜそこに止まってしまうのか。主は、「来ようとしません」と言われる。それは、分からないのではなく、来たがらないということ。 この言葉に、聖書を「読む」「調べる」「知る」ということと、「聖書が指し示すキリストのもとに行く」ということの違いが表わされているのではないだろうか。
聖書を学んで、知らされることがあったとしても、それで終わりではなく、主に出会っての一歩を踏み出さなければならない。キリストが与えられる真のいのちを知るためには、この「キリストのもとに来る」ということがなければならない。
イエスさまのもと、私のための十字架のもとに行って、主を信じ、経験し、いのちを得るために。

 おわりに
  知識をもっていても、主のもとに進み出て、自分の全存在をイエスさまに委ねて一歩を踏み出すことをしていなかった人々の姿から、私たちは知ることができます。
聖書の中心である主イエスさまを求める心なしには、また、学んで語られたことに従う心なしには、主のいのちに生きることができないことを。
私たちがみことばに触れるとき、私たちの心を主に向けましょう。そして喜んでみことばに従いましょう。