| 2010年6月13日 『ベテスダ…あわれみの家で』 |
| ヨハネ5章1節〜18節 はじめに 私たちは、日々、神さまから多くの語りかけをいただいて生活しています。 また、人の言葉を通しても、教えられ、慰められ、行動を促されたりします。 同じ人から同様の指示を、複数の人々が受ける場合、指示内容やそこに意図されていることへの理解度によって、受け止め方や従い方に違いが生じることがよくあります。 神さまのおことばに従おうとする私たちは、みことばを、どのような理解をもって受け止めているでしょうか。 今朝は、ベテスダの池でイエスさまが病人に対しておっしゃったおことばから、「主のことば」とはどのようなものかを学ばせていただきたいと思います。 〔1〕主は言われた…現状と思いを知って 主は「38年間病気にかかっている人」の存在、現状を知って彼に近づき、御言葉をかけられた。 祭りで賑わうエルサレム、一方、その郊外のベテスダの池には、取り残され、忘れ去られた多くの病人がいた。 キリストはそのような人に近づいていかれた。 ベテスダ…「あわれみ・恵みの家」という意味。 主を知らず、主に呼び求めることを知らずに、池を見つめてきた彼の存在を、主はご存知で、近づかれた。 5・6節「知って」とあるように、主は彼の苦悩の内容だけでなく、その心情・悲しみも理解しておられた。 私たちの心の課題についても、イエスさまは知っていてくださる。そして、あわれみをもってそのところに近づいて言葉をかけてくださる。 〔2〕主は言われた…心を深く探るために 主は彼の実状と心情だけでなく、彼自身も気づいていない心の奥底にある求めを知って彼に語られ、その心を探られた。すべてをご存知でありながら、主が敢えて言われた言葉は、「よくなりたいか」という問いかけだった。彼の求めを呼び覚ますために、求めることをしらない彼に、その願いを強くさせようと。 彼は、「池の中に私を入れてくれる人がいません。」と、ずっと考え続けてきた自分を癒す方法と、それを成し得ない理由を訴えながら、彼は、自らの内にある「よくなりたい」という願望をいっそう強く感じさせられたことだろう。 イエスさまは、しばしば問題課題そのものにとらわれてしまった私たちに語りかけてくださり、主に叫ぶべき、本当の求めを直視することを教えてくださる。 彼は、「主よ」と呼びかけている。彼にとって、ここで話した現実は、それまでと何も変わっていない絶望的なの事実だったが、主の前でそれを見つめ直すとき、それは本当の求めとなってはイエスさまに向いたという点で、彼は大きく変わった。 主は、このように私たちを探り、ご自身を表わしてくださる方である。 〔3〕主は言われた…癒し、変えるために 主の言葉は人を癒し変えるための御言葉である。 8・9節イエスさまが「起きなさい」と言われた。そして彼は、信じて起き上がることができた。それまで、「水がかきまわされた時」と言いながら、いつ訪れるかわからない瞬間をただ空しく待ち続けていた彼が、主のおことばによって、起き上がり、歩くことのできる人と変えられた。 この信仰のタイミングとみ業。私たちを癒し、立たせて歩ませてくださる方の御言葉に信頼して、動き出すその時にもたらされる、始められる奇跡のみ業である。 彼は、このあと、「もう、罪を犯してはならない」とイエスさまに言っていただき、イエスさまの赦しを体験する。 彼がそうであったように、信仰をもって踏み出すとき、新しい世界が広がっていき、ますます主を知っていくことができる。 10,16節…このいやしの業は安息日に行われた。「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった」18節と記されている。 主は、彼を癒すため、私たちを赦し立たせ、歩む者と変えてくださるために、ご自身が辿られる苦しみの道を、このとき知っておられながら、彼に「起きなさい」と言われたことが心に響いている。私たちが、しばしば、主の言葉を受けて、お従いすることが難しいと感じる時がある。 しかし、主が私に語られるそのお言葉の中には、私のためにいのちを投げ出してくださった主の愛が必ずあることを忘れない者でありたい。 おわりに 私たちは今週も、あらゆるところに、主のお言葉によるご干渉を受けることでしょう。 そのときに、私たちを知り、探り、変えてくださる主の言葉に、どのような応えをさせていただくことができるでしょうか。主は、信仰の応答を、待っていてくださいます。 |