| 2010年5月30日 『わたしのからだだ きよくなれ』 |
| マルコ1章40節〜45節 はじめに 先週はペンテコステ講壇として、私たちにすべてのことを教えてくださる助け主、聖霊についてのメッセージを取り次がせていただきました。 今朝は、シリーズに戻り、マルコの福音書の中から、ツァラアトにおかされた人の癒しの記事を開いています。 この出来事はマタイ8:1〜5,ルカ5:12〜16にも記されています。この記事から、私たちを癒しきよめてくださる主のお心について、3つの段階で、知らせていただきたいと導かれています。 〔1〕彼の現状(40節) 「ツァラアト」…感覚を損なわれる病気。それが、どのようなものであるか、また、当時の社会でどのように扱われていたか。→レビ13章 この病になった人は「汚れている」とされ、「衣を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって」自らを「汚れている、汚れている」と叫ばなければならなかった。そして、「汚れているので、ひとりで住み」「宿営の外」で生活をしなければならなかった。 「汚れている」という叫びが、心の中から湧いてくるような、悲しみと孤独の日々。 自分の病、汚れを認めつつも、誰も手を差し伸べることのできない距離が、彼との間には保たれてしまっていた。 ルカの福音書には「全身ツァラアトの人」と描かれている。彼は、本当にひどい状態、苦しみの極地を味わっているような現状だったということが分かる。 〔2〕彼の信仰(40節) 「ひざまずいて」…他の福音書では「ひれ伏して」とも書かれている。 彼は、できる限りの謙遜の態度をもってイエスさまに近づいた。 マタイの福音書には、「主よ。」と、イエスさまをお呼びしたことが、記されている。 「お心一つで、私をきよくしていただけます。」…主のお力と愛を信じて、汚れを承知で、あえて近づいていった彼の一途な思いが、表わされている言葉だと思う。 〔3〕主の応答(41,42節) 「イエスは深くあわれみ」…マルコだけがこの描写を記している。「同情に心を捕えられ」という意味。イエスさまが、彼の必要に直面されて、感じられた強い思いを示している。 主は、私たちの現状をご覧になるとき、このような、あつい思いをもって私たちの悲しみ、苦しみを同じように感じてくださる方である。 「手を伸ばして、彼にさわって」…主が、彼の腐りただれた体に触れられたということは、特に愛と同情を彼に示すためだったとわかる。 主は、その お言葉だけで人々を生かし、病気を治すことのできる お方。 けれども、あえて手を伸ばし、彼にさわられた。イエスさまは、しばしば、このようないやしをなさる。→水腫を患った人のときは抱いて癒された。 彼らには、そうしてもらう必要があることを、主は誰よりも良く知っておられたのである。 私たちの本当の必要を知り、私たちに手を伸ばしてくださるイエスさまの御手に、触れられた経験を、お持ちだろうか。ツァラアトの人は、内心、気後れしつつイエスさまに近づいたのかもしれないが、主のほうから、さらに距離を縮めて近づいてくださったのである。 それは、彼の汚れを身に負ってくださったということである。 「お心一つできよめていただけます」と言った彼に対して、イエスさまは、「わたしの心だ きよくなれ」と言われた。主は、彼の心に心で応えて、彼を癒しきよめてくださった。 そして、主ご自身が、彼以上に彼がいやされることを望んでおられたと感じる。 42節以降のように、彼は、「すぐに」癒された。 →レビ14:2にあるように、イエスさまも、彼に、祭司に見せるようにと言われた。 祭司に見せ、彼がきよくなったことを公に宣言してもらうためである。 主は、彼が、癒しきよめられたことを、さらにはっきりと知ることができる場所へ、彼を送り出してくださった。 おわりに 私たちが信じて、イエス様のもとに行くとき、私たちは主に触れられて、いやされるのみでなく、今朝、知らせていただいたような、イエスさまご自身を体験することができるのです。そして、その恵みと喜びを、歩みの中で、さらに確かなものとされていくのです。 |