| 2008年 3月30日 主を喜ぶ力 |
| ネヘミヤ記8章1〜12節 ネへミヤ時代のリバイバル *時代・ペルシャ(BC465〜426)の20年間(BC445) *状況・エルサレム城壁修復完了、人口が少ない、住民集会 A、御言を理解する喜び[御言を聞きたい] 1、御言への渇き 民はいっせいに集まった。エズラのリクエスト。学者エズラは・・・。 2、御言の朗読 *マラソン朗読:朝から晩まで *朗読箇所:仮庵の祭りの説明 *講壇:高く上げられた台、講壇の始まり *傾聴した人々:立ち上がって敬意を表わす、尊敬、傾聴を払う。 3、御言の効果 *賛美:エズラが先導して「ハレルヤ」を連呼。「アーメン」感謝。 *解説:分かりやすいへプル語で人々に語る。 *嘆き:悔い改めに至る。聖霊の働き。パウロの言葉を読む (2コリント7:8〜10)。先祖が神に背いて・・・。 *喜び:御言を理解した喜び。悲しみが喜びに変わった。エマオの二人 は復活の主に喜んだ。「心が燃えて」。聖書のことばが…。 B、主を喜ぶ喜び 1、救いの臼を喜ぶ。ネへミヤは救いの日を喜び、願いの日を忘れ…。 私たちも罪の放しを覚えるHである。喜びは体で現す。 2、主ご自身を喜ぶ喜び。 a,主が喜びなさる。 b、主を喜ぶ。「いろいろな訳、解説をする」留意されたい。 理由:喜べとの命令。主の前で喜び。悲しんでならない。 *主を喜ぶとは:主の恵みの故に喜ぶより、主の存在の故に喜ぶ。 主はどのようなお方であるゆえに喜ぶ。 具体的に、‥・(下記に説教を書込みましょう。) *主イエスを喜ぶ:(内住の喜び。) エマオの途上の二人の弟子も復活の主を喜ぶ。毎週日曜日に 集まり、こんなことをしたい、語りたいと喜んだ。復活から私たち も日曜日に集まるようになった。日曜日とは何でしょうか。 復活記念日です。 3、喜びは力を与える。 ペテロは新しいクリスチャンに言いました。ペテロ第一1章8、9節。 パウロも同じように喜びを語っている。ローマ5章11節。 C、御言葉を行う喜び 1、仮庵(かりいお)の規定を見つめる。レビ記23章参照。 2、仮庵の祭りを行う。 3、喜びが倍増する。 終りに 1、御言葉に傾聴しよう。 御言葉を聞く。みんな揃って聞くことの喜び。 ディポーションや家庭で聞く。 2、御言葉の中である主を見つめよう。 主ご自身が私たちの心に生きているのです。 いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝することです。 これは霊の秘訣です。 3、御言葉を行う喜びを経験しよう。 日常生活でみことばを行うのである。 すべての働きすべての分野で喜びが満ちあふれるように。 |
| 2008年 3月23日 岸べに立たれた復活の主イエス様 |
| ヨハネ21章1〜14節 【1】失望・失意の中での弟子たち(l〜3節) 湖畔には、ペテロをはじめ、7名の弟子たちがいた。彼らは20章1〜3節で復活を 見ていたが、まだ身に危険を感じて郷里に帰って来ていたのか、または復活の主イエス様 から「ガリラヤへ行くように」と指示されていたのか、いづれにしても、いまだ失望・ 失意の中にあった。そのような心境にあっても、食物が必要となったためにべテロが「私 は漁に行く」と言うと、その言葉に他の6人もうながされて漁に出かけた。もともと彼 らは、イエス様の弟子として召される3年前までは、このガリラヤ湖で漁をして生計を 立てていた。プロの漁師なのである。ところがどうしたことか「その夜は何もとれな かった」1匹も。ここから私たちは、復活に出会えない人間の失望、失意、不安といった 姿を読み取ることがでをないだろうか。イエス様はすでに墓を破って復活されていた にもかかわもず、全き信仰がないゆえに失望、失意、不安、むなしさ、暗やみに心を 支配されてしまう。この3年間、主イエス様とともに生き、従って来た弟子たちでさえ、 この有り様だったのである。 この朝イースター記念礼拝を迎えて、私たちお互いの姿はどうであろうか。「その夜は 何もとれなかった」という、ほどに、失望、失意、落胆の中にある方はおられるだろうか。 しかし、自分が今、失意の中にあると正直に認めちれる人は幸いなのである。なぜなら、 その失意の中に、復活のエス様を認める信仰を与えられるからである。どのような失 意・失望も、明るい希望の朝へと入ることができるからでる。そのことを期待したい。 【2】岸べに立たれた復活の主イエス様 一夜が明け、新しい朝を迎えたが、それでもペテロたちは失意と不安の中にあった。た だ、夜明けとともに彼らは疲労をおぼえ、なによりも空腹を感じながら岸べの方へと向 かった。その時イエス様は岸べにおられたが、彼らはその人がイエス様だとわからなか った。その人は岸べから、「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と声をかけられ た。弟子たちは「はい。ありません。」と答えるのが精一杯だった。すると岸に立つその 人は、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と指示された。この時 彼らはどのような応答をしたのだろうか。ただ、しかし、「プロの漁師がとれなかったの に、まして・・・」などとは言わなかった。彼らは言われた通りにした。すると、網の中に どんどん魚が入って来るではないか!彼らはその人の声にすぐに従い、魚網をおろした。 おそらくその声は、何とも言えない感覚、穏やかな中にも威厳を感じるものだったに違 いない。そして、おびただしい数の魚で網を引き上げられない状態となった弟子たちの 目は、いっせいに岸べに立っておられる人物に注がれたことだろう。ガリラヤ湖の朝も やを通して、最初にその人物がイエス様であることに気づいたのは、ヨハネであった。 ヨハネがペテロに「主です」と言うと、ペテロは「裸だったので、上着をまとって、湖 に飛び込んだ」。ペテロの性格がよく現れている箇所の1つである。 ところで、このすばらしい大漁の経験は、ペテロたちに、以前経験した同じような出 来事を思い起こさせたに違いない(ルカ5:1〜11)。この時ペテロは「先生。私たち は、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」と言いながらも、イエス様の言わ れた通りにした。すると大漁となり、ペテロもその仲間たちもひどく驚いた。そしてイ エス様は「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 (ルカ5:10)と言われ、彼らを弟子とされたのだった。 それから3年間、彼らはイエス様につき従って、神の国のために働いてきた。しかし 12弟子たちのうち、受難週の最中にユダがイエス様を裏切り、ペテロもイエス様を3 度も知らないと偽り、イエス様が逮捕された時には他の弟子たちもみな、イエス様を見 捨てて逃げてしまった。ヨハネだけがイエス様の十字架の下にいたのである。それでも 復活のイエス様は、彼らにもう一度チャンスを与えてくださった。それがこの朝の「舟 の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」という愛の配慮であられた。私た ちは、「舟の右側」と語られる復活のイエス様を信頼して、お言葉通りに従って生きてい くことで、神のみわざに出会えるのである。 最も重要な聖句は「主です。」というヨハネの言葉である。この一言は、イエス様が 本当に復活して、今ここ(岸べ)に立っておられるという、倍仰の告白でもある。復活 されたイエス様は、今も私たちの生活の岸べに立ち続け、私たちを主ご自身の側へと招 いておられる。 【3】朝の食卓を準備されるイエス様 弟子たちが陸に上がると、炭火の上に魚とパンをのせて朝食の用意がされていた。そ れは復活のイエス様が用意されたもので、イエス様は「さあ来て、朝の食事をしなさい。」 と、弟子たちを招かれた。イエス様は弟子たちに「あなたがたの今とった魚を幾匹か持 って来なさい。」と言われたが、これはこの朝食が奇蹟的なものではなく、普通の食事で あったことを意味している。また、網に入っていた魚は153匹であったが、この数を めぐっては、いろいろなことが論じられている。(私は3年前の入院中、この箇所を読み、 教会礼拝人数が150人を超える日が来ることを祈っていた。) <結び> @大漁となったという出来事から、復活のイエス様を信じ、そのお方の指示に、御言葉 に従ってゆくと、今日の私たちもまた、おびただしい魚、つまりクリスチャンを増や し、教会を生み出す教会となれる、ということを教えられる。 A「網は破れなかった」という聖句からは、教会が破れたり裂けたりすることなく、御 霊の一致、信仰の豊かな交わりが行なわれているのを見ることができる。 B主の復活を記念する礼拝をささげているこの朝、あなたも私も「主です。」と言って、 岸べに立っておられる復活のイエス様を見ていただけているだろうか。 |
| 2008年 3月16日 父よ彼らをお赦しください |
| ルカ23章32〜43節 …はじめに… 昨年、東北の地・仙台市で開かれた韓国オンヌリ教会支援の「愛のソナタ」大会にお いて、説教者がメッセ】ジの中で、「私たち韓国人は、日本に被害者意識を持つことが当 然だと思っていたが、それは傲慢で間違いだと神様が教えてくれた。みなさん、お赦し ください…」と語ったとき、会場は一瞬シーンとなったという。通訳者も涙で声をつま らせ、「日本人こそ謝らなければならない」と参加者の中にも涙を流す者がいたという。 4年ほど前、『悩み続ける苦しみから人生を取り戻した人々の物語』(実例の証詞書)を 読んだとき、℃ヘしの深さ≠ノ驚いた。もし、「あなたは赦せない人がいますか?」と質 問されたら、みなさんならどのように答えるのだろうか。マザー・テレサに次のような 言葉がある。「夫婦関係に問題をかかえている2人にどのようなアドバイスがあるかと開 かれたら、私はいつもこう答える。祈って、赦しなさい=B暴力的な家庭で育った若 い人にもこう言う。祈って、赦しなさい=Bそしてまた、家庭の助けのないシングル マザーにも。祈って、赦しなさい=v。 イエス様は、公的な奉仕の中で、『赦し』についてどのように語られたであろうか。み なさん、思い起こしていただきたい。マタイの福音書からは、次のみことばを列挙でき る。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦し ました。」(6:12)、「もし人の罪を赦すなら、・‥天の父もあなたがたを赦してくださ います。しかし、人を赦さないなら、…あなたがたの罪をお赦しになりません」(6: 14〜15)、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう・・」 (12:31)、「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。」(12:32)。 また、ペテロが何度まで赦すべきかたずねると、イエス様は「7度まで、などとはわた しは言いません。7度を70倍するまでと言います。」(18:22)と答えられ、さら に地上の王の例えを話された後手あなた方もそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天 のわたしの父も、あなた方に、このようになさるのですJ(18:35)と語られた. イエス様は『赦し』を語られただけでなく、そのメッセージを実行された。つまり、 十字架にかけられたことである。想像を絶する犠牲となられ、主のお体は痛みで引ぎ裂 かれ、敵があびせている悪意に満ちた侮辱の言葉を開きながら、力をふりしぼって「大 きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」(ヘプル5:7)られた。「父よ.彼らを お赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34) 十字架の「上で」発せられた『赦し』のおことばは、私たちの「中で」も強烈に響き渡 っている。この『赦し』を受けてこそ、「真の愛」を実体験できるのである。 【1】 過去の罪との関係 過去に正直に具体的に向かい合う必要がある。真の『赦し』とは、自分の罪をはっき りと見ること、すなわち、手加減を加えてそのままになっている罪を直視することであ り、また、恐怖と汚れと悪意と憎悪を直視することである。それらを「事実である」と 認め向き合ったなら、次に、自分がそれらの事実に対してどのような感情を抱いている のかを見る.拒絶、孤独、恐怖、怒り、恥、憎しみ、憂鬱感など、自分の中で今も感じ 続けている感情を見る.特に、受けた心の傷やその痛みは、「頭の中で考えている」ので はなく、心の深い所から感じることである。そしてさらに、自分の中にある怒りや憤り、 憎しみを認め、かつ手放さなければ、全き『赦し』は得ることができない。つまり、『赦 し』への道として、過去に何が起きたのか、そしてそのことについてどのように自分は 感じていたのかを確認する必要がある。その上で、次に、現在的にはどうやって『赦し』 を得るのかを考えることになる。 【2】 現在的な『赦し』の核心 『赦し』の中心は、℃ヘすのか∞℃ヘさないのかの選択になる。先週、福岡の中学 校で、卒業式に3人の逮捕者が出たというニュースがあった。中学生が起こした罪の行 為は、彼らの親たちの心を引き裂き、家庭に恥をもたらすだろう。しかし彼らの親たち は、その事で自分達が苦しまなければならなくなったことを理由に、彼らに苦しみを味 わわせるだろうか。責任感のある親たちであれば、代わりに苦しむだろう。『赦し』とは、 代わりに苦しむこと、代価を払うことである。『赦し』は、痛みを犠牲的に引き受けるこ とを求めるものなのである。 もちろん、『赦し』にともなう最大の苦しみや犠牲を払われたのは、主イエス・キリス トの十字架である。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われまし た。」第一ペテロ2:24)とペテロは書き記している。イエス様は、私たちの罪がもた らす罪責と罰と恥を、ご自身で引き受けられた。本来、白分の罪は自分で負うのが当然 である。しかし神は、私たちの罪を見過ごしにされたのではなく、罪の痛みと裁きを、 神から遣わされたキリストご自身に身代わりとして受けさせたのである。 『赦し』とは、自分に対して罪を犯した者を解放し、彼らを神の御手にゆだねること である。私たちは自ら裁判官や検察官のようになる必要はない。すべて神にお任せすれ ばよい。イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られ、赦された。罪を犯した 人間が罪を赦され、彼の周囲の人々に罪を犯すことのないよう促すことができたなら、 なんと幸いな恵みであろうか。 【3】 罪の『赦し』はやり直しが可能 自分の問題について他の人を責めている限りでは、自分に対する責任を取っていると は言えない。それでは問題は未解決のままである。しかし、自分自身で責任を認めると、 すなわち、℃ヘす≠アとによって自分に対する責任を白分で取ると、青葉では言い尽く せない解放感を経験できるのである。自分に罪を犯した人は、自分の生涯に影響力をお よぼきない。赦す時、白分に罪を犯した人を解放するだけではなくて、自分を相手から 解放してやることが可能となり、自分の進路に白由が与えられるのである。 前述の書物には、「一生恨んでも不思議はない相手を赦した時に、思いもかけない自由 がやってきた」と記されていた。この文を読んだとき、私は霊の感動を受けた。『赦し』 の結果は和解ではないだろうか。 <結び> 1.自分に罪悪を行った者を赦す道は、私たちを主キリストの十字架のもとに連れて行く のである。パウロは「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します.私が 何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦 したのですJ(Uコリント2:10)と、十字架なるキリストの御前において赦され ると語っている。 2.そして、「父よ。彼らをお赦しくださいJ と言うことができるようになるなら、なん と恵みに満ちあふれたクリスチャン人生であろうか。 |
| 2008年 3月 2日 神のみこころと助言の重さ |
| 使徒の働き2章37〜47節 【1】ペテロの説教に反応する人々(37・41節) 弟子達は聖霊に満たされ聖霊の力により主イエス様を証しする使命に励んだ。使徒達の代表としてペテロが初代教会の最初の説教を行った。ペテロは人々が今なすべきことは、ただ主イエスの十字架の前に悔い改めることだけであると語った。人々はどんな反応をしたか。彼らは「心を刺され」と。人々の良心に罪の深い自覚が生じて自責の念にかられたのである。教会とはこの世の罪と邪悪さに目覚めさせられ救いの恵みと希望に生きる者となったクリスチャンの生命共同体である。それは聖霊の顕著な活動と導きのもとでの成果であり驚くことではなくすべては神のみわざの実現なのである。 【2】生命共同体となった初代教会(41〜47節) この箇所のみことばを読むと初代教会のクリスチャン共同体の姿として、お互いの間での仕えあいと家族的で親しい霊的な交わりが信仰者の間にどんどん広がっていく様子をうかがい知れる。新約聖書が霊の交わりを強調している事実を真剣に受け止めるならクリスチャンとしてどう生きるべきかについて、お互いに深い示唆を受けることが可能だろう。 (結び) 1.自分は神と個人的な営みをしているから他人の助言がなくても自分のクリスチャン人生における神のみこころを見いだすことがきると思い込まないように。 2.神様が私たちを社会的存在として造られたゆえに私たちは周りの人々との関わり合いの中で自らの人生の目標を見出すことが可能である。 3.最終的な決断を行うのは常に自分自身である。 |
| 2008年 2月17日 神のみこころと祈り |
| マタイ26章36〜46節 【1】神のみこころを知るために祈る クリスチャン生活に祈りはなぜ必要なのだろうか。それは神がこの地上で、みわざを行われるにあたって神ご自身が望まれる方法とは信仰者の祈りへの応答として私たちをみこころを行うために選ばれたことだからである。 私たちは神と親しく交わり神に仕え、神のみこころを行う者でありたい。それゆえ神のみこころを知るために祈ることが求められる。神のみこころが本当にこの地上にも行われるようにと願うものでなければならない。もし心がサタンに支配され自分の欲望のおもむくままに動いているなら神のみこころを行うことはできない。心が神の愛に支配され神の声を聴く心になっているとき神のみこころを知ることができるのではないか。 【2】正しいことを行う力を祈り求める 1.イエス様は弟子達にも祈って欲しいと言われた。しかし弟子達は眠ってしまった。孤独の祈祷 2.三度繰り返して祈られた。その祈りの姿は「ひれ伏して」「ひざまづいて」と父なる神に従う心そのものであった。全的服従の姿 3.「イエスは悲しみもだえ」「悲しみのあまり死ぬほど」「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように落ちた」というくらいに激しい祈りであった。激烈な祈祷 イエス様が神のみこころを受け入れることに強い感情を表しておられる事実は私たちを大いに励まし自分も何らかの問題を抱えたとき厳しく自分にあたるべきではないと勇気づけられもする。また「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」とご自身の正直な願いを神に告白されている。このことから私たちには神の御前で”ありのままの自分”でいられる自由があると言える。 (結び) 1.自分の思いや願いは神のみこころに服従していくものであり信仰者のとるべき態度は自分の思いを最後まで通すことではない。 2.信仰生活には危機的状況に直面したり大きな決断を迫られる前に、日頃から神のみこころに喜んで従えるよう祈らなければならない。 3.神のみこころを喜んで行う思いを身につけることが導きにとって中心的なことである。 |
| 2008年 2月10日 神のみこころとみことば |
| マルコ4章1〜20節 【1】みことばの働きを理解しない 1.「道ばたの種」・・畑のわきのあぜ道や道路といった通行人の足で通行人の足で踏み固められた場所であるので鳥が来て食べる。霊的にはサタンが来て種を持ち去ることを意味する。つまりイエス様のことばに耳を傾け聞きはするもののサタンによる疑いのゆえに、みことばが何の結果ももたらさないということだ。 2.「土の薄い岩地の種」・・岩の上に薄く土がかぶさっている場所なので太陽の熱によって早く温まり発芽する。しかし土が薄いため根がはってもすぐに岩にぶつかってしまい水分を吸収できず、やがて太陽の熱で枯れてしまう。霊的には、みことばは受け入れるがその心に深さがないため外からの困難、試練に簡単にまいってしまい、みことばの実を結ぶことがないということだ。 3.「いばらの中に落ちた種」・・見た目はきれいだが、いばらの根がはっている場所なのでいばらの方が早く成長してその場所をおおってしまい種は実を結べない。霊的には内側から生じるこの世の心づかい富の惑わし、様々な欲望という精神的不純物が心の中に存在している。イエス様は神と富とに同時に仕えることは不可能だと語られた。 【2】みことばの働きを理解する 私たちはどうみことばを聞くかに注意を払い心を耕さなければならない。耕された心にはみことばが受け入れられ神のみこころを理解し理性を用いるのである。なぜなら直感的な印象を求めたりするのではなく神のみこころを論理的に選択できるよう理性を働かせる責任があるのである。 【3】神のみこころはみことばに導かれる 神のみこころを知るために、みことばは多様な働きをする。そして聖霊による働きが実行に移る力となる。 (結び) 1.神のみこころは通常、人間の理性を経路として示され、また、みこころを見分けるということは霊の健全さと論理的な選択をすることである。パウロは『賢い人のように歩んでいるどうか、よくよく注意し・・主のみこころは何であるかをよく悟りなさい』(エペソ5:15〜17)と理性的な判断力を用いて神のみこころを用いるよう勧めている。 2.神のみこころに関して素晴らしい約束のことばは「神のみこころは何か、すなわち何が良いことで神に受け入れられ完全であるのか」(ローマ12:2)をわきまえ知ることにある。具体的に言えば神がお望みであることが明らかならば、その道を喜んで受け入れるということだ。何よりも神のみこころに自分の身を委ねようとする態度、心を開く態度を常に取れるよう私たちは務めなければならない。 以上のことは日々、聖書を読まなければわからないことである。だからこそ毎日聖書を読むと聖霊が働いて神のみこころの間に私たちを導くのである。 |
| 2008年 2月 3日 神のみこころと導き |
| ヨハネ10章1〜18節 【1】羊飼いは羊に対して責任を負う イエス様が明白に語っておられることは羊飼いが羊に対してとるような責任を、主イエス様はご自身に従う者に対してとって下さるということである。この責任には明らかに導くことも含まれている。 3〜4節には「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。・・その先頭に立って行きます。」とあるが、イエス様は羊である私たちをどこに導いて行かれるのだろうか。9節には「救われます」と、救いと永遠のいのちが提示されている。ここから神の導きについて2つの励ましをいただく。 一つ目は羊飼いの性質を通しての励ましである。当時羊飼いは羊に対する思いやりばかりでなく確固たるリーダーシップも持っていることで有名であった。羊飼いは羊がある牧草地から他の牧草地に移動することについて絶対的な責任をもっていた。そのため彼らは羊に名前をつけ、その名で呼んで連れ出した。羊もまた羊飼いの声を聞き分けた。また羊が迷い出すと羊飼いは羊の間近に石を正確に投げて羊の方向を変えさせた。羊は驚くが傷つくことなく直ちに囲いの中に入るのだった。 二つ目は羊の姿を通しての励ましである。羊は方向感覚がなく動物の中でもことのほか鈍いと言われる。羊は羊飼いに全面的に依存し導かれる。同様に私たちは神に全面的に依存し導かれる。神は私たちが羊のようにどこへ行けばよいのかわからない者であることをご存じで、さらに私たちが『神のみこころ』が何なのかわからず戸惑う者であることをご存知なのだ。しかし神は信仰者に戸惑いがあろうとなかろうと圧倒的なリーダーシップをもって導いて下さる。このことを認めると『神のみこころ』を知り従おうとする際に圧倒的な安心を得ることが出来る。 【2】良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる 第一に神が私という個人に感心を持ち責任を負って下さることを認めれば『神のみこころ』を知ろうとする者が通常陥るであろう恐れから解放される。イエス様は「わたしは良い牧者です」と語られているように、すべてのクリスチャン一人一人に尊い者として導いて下さる。 第二にもし神が導きをお与えになっても、それがわからないという恐れから解放される。神が導かれることを確信していながら自分自身の限りある理解力のために神からのシグナルがあるにもかかわらず、それが導きなのかどうかわからないかもしれない。しかしイエス様は「良い牧者」として導きの約束をなさり、またイエス様御自身の願う所に行くためのいっさいの責任は、神がとって下さるのである。私たちの側で導きを充分理解できていない時は周囲の状況が整えられることによって神がお望みになることを私たちが行うように導かれる。神は偉大な方であられるので、信仰者が充分に了解できないからといって、ご自分のみこころに進ませないことはあり得ません。 (結び) 1.神の導きとは聖書中で最も大いなる約束である。 2.導きには神の責任が明白である。 |
| 2008年 1月27日 十字架のことばは、・・神の力です |
| コリント第一1章18〜31節 【1】十字架のことばの力 人が罪から救われる秘訣は十字架のことばとその福音とに注意を払うことである。それは救いの力、神の力となる。『力』とは活動するもの、脈打つもの、結果を生むものである。キリストの十字架を信じ十字架に心を傾け、十字架を深く思う者は自分の内に働く神の力をよく知っている。皆様は人間の力、政治の力、スポーツの力、科学の力ではないことを知っているだろうか。 【2】この世の知恵の空しさ(10〜24節) パウロは『彼らは自分では知者であると言いながら愚かな者となり』(ローマ書1章22節)とローマ人に書き送っている。そして21節『宣教のことばの愚かさ』によって信じる者を救うことを善とした。すべての哲学の空しさ、さとしい人々の論議では真の神を発見することに失敗した。この破産した世の知恵と哲学のど真ん中へ神はひとり子イエス・キリストを遣わし、その十字架によって一つのメッセージを送られた。それが宣教であり告知であり、声明であり、宣言であり、『宣教の愚かさ』である。こうして神は知恵をもって働かれ行動されるので信ずる者は一変、改変されてしまうのである。 【3】誇る者は主にあって誇れ(26〜31節) パウロは人間同士の基準から離れて『神の御前』に自らの卑しさを徹底的に知らされ誇りを打ち砕かれなければならないと宣言したのである。それは人間的誇りを全く否定することである。それでは私たちにとって驚くべき誇りとは何か。それは『キリストは私たちにとって神の知恵』であり、また『義と聖めと贖い』の中にキリストの知恵があるということである。 (結び) 人間の学問、哲学、科学、教育には霊的な力も道徳的な力もない。しかし十字架のことばは人間のために神から来た知恵の究極の言葉であり神の知恵を人間存在の霊・心・肉体へと適用していく。この事実をもっているがゆえに私たちクリスチャンは『十字架を誇る』のである。 |
| 2008年 1月20日 ヨルダン川を渡るとは・・ |
| ヨシュア記3章1〜17節 今回のヨルダン渡河はクリスチャン人生の中で1つの重要な体験を示すことを述べたい。 霊的な面でヨルダン渡河を考えると、まずモーセに率いられてエジプト脱出をしたこと、すなわち紅海渡河は罪の世より救い出されたことを意味する。それは水のバプテスマの表徴である。そしてこのヨルダン渡河は聖霊の生涯に入るための聖霊のバプテスマの表徴である。それはつまり罪の奴隷となっていた人間がクリスチャン生涯を歩みにあたって、この2つの経験を経ることが求められていることを示している。それはすなわち『新生』と『聖化』である。 【1】主の契約の箱について ヨルダン渡河は宗教的行為であって、敵前渡河ではない。主の契約の箱は神の臨在を現している。6・11・14各節では契約の箱が先に進んでいる。これは神の臨在に導かれることを意味する。ヘブル書12章2節『信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』とあるように。この節での目とは、もちろん心の目である。単純な信仰が肝心なのだ。御言葉を読み御言葉に扱われる。クリスチャン生涯とは神に扱われ砕かれる生涯なのです。 【2】神とともにいるヨシュアについて ●「あなたの神、主の言葉を聞きなさい」(9節) ●「生ける神があなた方のうちにおられる」(10節) 【3】ヨルダン川を渡る民たち ヨルダン川は契約の箱が水際に浸るやいなや、川上、川下へと水が一気に退いて川底を歩いて横断できるようになった。信じる者に働く神の御力によってヨルダン川が退いたように主は、私たちの前進のために道を開いて下さるのである。神の言葉を信じ見える所はどのような状態・環境であっても信仰に踏み出しをすることである。 (結び) ヘブル書4章8節『もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はその後で別の日のことを話されたことはなかったでしょう』 1.ヨシュアは地上的な安息は与えたが神が与えられる霊の安息ではなかった。 2.天における霊的な安息はキリストによって与えられる。ヨシュア記は聖霊に満たされた安息の体験の表徴であったです。 |
| 2008年 1月13日 主を愛しなさい。教え込みなさい。唱えなさい。 |
| 申命記6章1〜9節 本書はカナンに入るにあたってヨルダン川を渡る前にモーセがイスラエルの民に告げた訣別説教の連読である。聖なる民・宝の民(7章9節)が40年前に約束された地に入るにあたり、モーセはシナイ山で与えられた様々の律法を再度整理し首都の契約を更新する必要を覚えた。なぜならイスラエルの民はもはや新しく若い世代になっていたからである。 【1】特色について ●聖なる民を引き離し、また宝の民の性質や行いを堕落させるようにみえるものは、どんなものも存続させてはならない。みだらなカナン人たちにより神の民が汚されないように彼らを滅ぼさなけれがならない。 ●神は聖なる民を愛し、そして彼らの愛を求め伝えることを望んでおられる。 ●旧約聖書全体に流れる最も重要な教えがある。それは宝の民が神に従うときは祝福をうけ神に反逆するときはのろいを受けるということである。 【2】荒野の生活40年について ●「あなたの神主はこの40年の間あなたとともにおられ、あなたは何一つ欠けたものはなかった。」(神の御守りと祝福) ●「この40年の間・・あなたを苦しめてあなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。・・あなたの着物はすり切れずあなたの足は腫れなかった。」(荒野における神の御加護の御手の強調) ●「私は40年の間あなたがたに荒野を行かせたが、・・着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」(神の御守りは豊かだったことの表現) 【3】分け方について (1)出エジプト以後の回顧(1〜4節) (2)本論的訣別説教(5〜26節) (3)結論的訣別説教(27〜30節) (4)モーセの生涯の締め括り(31〜34節) (1〜3節)律法の目的と祝福 (5〜6節)個人体験における主 (7〜9節)家庭生活における主 (結び) 1.聖書を読み続けよう 2.みことばに扱われよう 3.聖書的な考えが生まれるように |
| 2008年 1月 6日 心の一新によって自分を変えなさい |
| ローマ書12章1〜8節 【1】「ささげなさい」(献身)(1節) パウロはクリスチャンの実際生活・生き方について語っている。まず彼らに真実の献身を勧める。献身とは私たちが神様に対してなすべき最も大切な信仰行為である。 ●「神に受け入れられる」供え物としてささげること。 ●「聖い」供え物としてささげること。 ●「生きた」供え物としてささげること。 【2】「自分を変えなさい」(変革)(2節) まずこの世と調子を合わせるな ということだ。これも世間からひたすら遠ざかるように聞こえるが決してそうではない。クリスチャンは悪のこの世から救い出され神の国に入れられた者なのだから、この世・この時代の外形的なあり方や神に反逆し過ぎていくこの時代に迎合し自らを合わせてはいけない。と警告しているのです。 (結び) 神への献身と御霊による変革とはキリストをかしらとする教会員の一人とされることでもある。クリスチャンは一人で生きるのではなく霊的共同体の一員として、生命的・有機的な交わりの中に生き、ともに仕え、ともに成長していくものである。そしてそれは本当に円熟したクリスチャンの生き方なのである。 |