| 2010年4月11日 『主がそこにおられるなら』 |
| ヨハネ2章1〜11節 はじめに さて、今年の教会の年間聖句は、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができま すように」エペソ3:19です。年会を越え、新年度に踏み入り、また、椋欄の聖日・イー スター聖日を越えて、キリストの愛を知るために、キリストにお会いする・・・ということに心 が留まり、今朝から、「主イエスに出会った人々」というシリーズを始めるようにと導かれま した。 今朝は、「カナの婚礼」の記事から、「主がそこにおられるなら」と題して、主がともに おられることを知る者の幸いについて知らせていただきたいと思います。 【1】婚礼の席での事態(1〜3節) @ぶどう酒がなくなった(3節) ぶどう酒は当時の結婚式において招待客をもてなす上で欠かせないものでした。 ぶどう酒がなくなったという事態は、大変な事態だった。 A主がそこにおられた(2節) この結婚式について、もう一つの事実があります。 イエスさまがおられ、弟子たちと、母マリヤも出席していたことです。 つまり、ぶどう酒が尽きてしまったというハプニングの中に、イエスさまもおられたのです。 【2】主に告げられた事態(3〜5節) @主に窮状を告げた母マリヤ(3節) 母マリヤはイエスさまに向かって「ぶどう酒がありません」と告げ、この差し迫った問題の 解決をイエスさまに求めています。 Aマリヤに答えられた主(4節) 一見、冷たいと思われる主の応答は、実は尊敬を込めた真実なものでした。 イエスきまは、マリヤの要求を拒絶されたのではなく、イエスさまの視線が、十字架へと向 けられていて、その「時」という言葉を使われたことがわかる。→17:1 B主への信頼を表わしたマヴヤ(5節) 母マリヤも、そのようなイエスさまのお心がわかり、そのあと、主がしてくださることを見 つめようとするかのように、5節のように言いました。 手伝いのものにこう指示して、イエスさまの主権を認め、イエスへの信頼を表わしたといえ るでしょう。ここに彼女の、主のみこころを理解する愛の力を感じます。 【3】主が変えてくださった事態〈6〜11節) @奇蹟のみわざによって(6〜10節) さて、この婚礼の場所には、大きな水がめが六個置いてありました。当時のユダヤ人のきよ めのしきたりに従って、招待客がその水で足をきよめ、婚礼の席についたからです。 主は、その水がめに水を満たすように、続いて、その水がめから汲んで世話役のところへ持 って行くようにと言われ、その言葉に手伝いの者たちは従いました。 そして、その水はぶどう酒に変えられました。 世話役は、ぶどう酒になった水を味わい、その味に驚き、花婿を呼んで彼を褒めました。 A最初のしるしとして(11節) 11節に、この奇蹟について、「最初のしるし」と書かれています。 この節から、イエスさまが、しるしを行われた目的は、栄光を表わされることだとわかりま す。イエスさまの内に働く神のお力と、主が神から遣わされたという事を示すためのしるし であったわけです。 そのしるしが行われた結果、「弟子たちはイエスを信じた」とあります。 私たちは、欠乏を知らされるとき、解決できない罪と汚れを認識するとき、それをいつでも 主に告げることができるのです。私のために「時」を見つめて、購いのみわざを完成してくだ さった方に信頼し、従う、恵みの道が開かれていることをあらわすしるしとして、このぶど う酒の奇蹟が最初に行われたということです。 おわりに 私たちの生涯に、キリストがそこにいてくださるなら、私たちのうちに主を招き入れるなら、 私たちの心と生涯の質が変えられます。私たちが置かれている、その場所に主がおられるな ら、私の欠乏の中に生まれる豊かさを得ることができるのです。 「主がそこにおられる」ということは、私たちの意識の問題です。ただ、主のお姿を想像する ことではなく、そのみこころを意識して、それに従うという心の在りかたのことだと思いま す。この一週、またこれからの日々のすべてのシーン、そこに主がいてくださるなら、主ご自身 の祝福があるのです。その幸いを体験する者でありたいものです。 |