| 2010年4月4日 『平安があなたがたにあるように』 |
| ヨハネ20章19〜31節 はじめに イースター記念礼拝が、この伝道礼拝と重なったことは、大きな喜びである。 さて、今朝、聖書交読でコリント人への手紙第一15:1〜10節を拝読したが、そこに 記されていたように、イエス・キリストは復活後、弟子たちの前に現れなさった。 それらは、4つの福音書に綴られているが、その中のヨハネの福音書をお開きしている。 ここには、イエスさまが、十字架にかかって葬られたのち、墓からよみがえられた日と、そ の八日後に弟子たちの前に顕現された事が記されている。 この19〜25節と26〜31節のふたつの記事の間には、8日のへだたりがあるので、その二 つに分けて見ていき、復活の主から受け取らせていただきたい。 【1】弟子たちと復活の主(19〜25節) @戸を閉ざしていた弟子たち 19節「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が締めてあった」 弟子たちは悲しみと恐れに、戸を閉じ、心も閉ざしてすごしていた。 A入って来られた主 19節「イエスが来られ、彼らの中に立って」 彼らにとって主のご存在が、どんなに心強く、慰めに満ちたものであっただろう。 B平安があなたがたに・・・と言われた主 「平安があなたがたにあるように」 これは、日常の挨拶の言葉。十字架の前夜、「平安」について語られた。→14:27 それから、主は彼らに、息を吹きかけ聖霊を受けよと言われ、続いて、キリストによる 罪の赦しを力強く宣言する権威と特権が彼らに与えられていることを語られた。 C喜んだ弟子たち 20節 主のご顕現に触れて、彼らは喜んだ。主にお会いしたことで、彼らの悲しみは 喜びに変わった。 【2】トマスと復活のイエスさま(26〜31節) その八日後の記事に目を移したい。やはり戸が閉じられていたが、主は入って来られ、 彼らの中に立って、また、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 @「信じない」と言ったトマス 25節で、すでに主と会うことができた他の10人の弟子たちから、喜びの出来事を 聞かされたトマスは、手決して信じない」と言った。 彼は自分の心にある思いを率直に表す人であったようだ。 →ヨハネ11:16,14:5 「信じない」という言葉は、彼の心の底から湧きあがった求めと叫びであったのだろう。 Aトマスのために来られた主 このトマスのために、主は、もう一度来てくださった。トマスが「信じる」ということへ と立ち上がって踏み出すために、「あなたの指をここにつけて」「手を伸ばして」と、十字 架で傷ついた御体を、主は彼に示された。主とお会いすることによって、彼が「倍じる 者」となることができるということを、主は知っておられた。 ◎信じる者となったトマス 28節トマスは答えてイエスに言った。「私の主、私の神」 トマスがこのように告白できたのは、十字架にかかって、彼の罪を負い、赦し、復活し、 生きておられる主が来てくださり、その御愛が彼の前に、そして彼のうちに明らかにさ れたから。 おわりに このイエスさまは、私たちひとりひとりのためにも来てくださる自分の心のうちの疑いを、 恐れを、不安を、主を信じることのできない罪をみせつけられるとき、ただひとり、その苦しみ に近づき、そして解決することのできるのは、救い主イエスさまである。この主にお会いし、主 の十字架の傷が、私のためだったとわかるとき、私たちは、信じる者、喜ぶ者と変えられること ができる。→「福音絵物語」より「ジミーと無神論者」 きょう、イエス様は「わたしの平安があなたがたにあるように」と、私たちの中にも来ておられる。 その御傷を示し、私たちへの愛をしめしておられる主に、私たちは何とお答えするだろうか。 弟子たちのために来られ、トマスのために来られ、そして私のために現れてくださった主は、今、 ひとりひとりが一歩を踏み出すようにと待っていてくださる。 この恵みの中に進ませていただき、「信じる者」とならせていただきたい。 |