礼拝メモ

2002年6月30日   主イエスの葬りと希望
マタイの福音書27章50節〜66節より
イエス様は十字架上で大声で叫んで息を引き取られた。その声についてルカは「父よ。わが霊を御手に委ねます」と、ヨハネは「完了した」と言ったと伝えられている。主の贖罪の死は、死を克服する者の死、贖罪の大業の勝利の死であった。
【1】イエス様の埋葬
   @ひそかな弟子2人の立ち上がり
   A葬りの様子を見る二人の女性
【2】墓に番兵を要求する人々
【3】墓は人生の終わりではない
   @死の現実
   A信じる者達の確証
イエス様は十字架の死によって私たちの罪の贖いをして下さり、死にも勝利し復活して下さいました。私たちにとってこの世に生きる上で、死の現実からは逃れられません。しかしイエス様によって、死に対する恐れは消え去りました。死から始まる永遠の命への恵み。私たちは、希望を抱きつつ信仰の歩みをさせて頂くことが出来ます。主よどうぞ、この素晴らしい恵みを一人でも多くの方々に知って頂く事が出来ますように・・・


2002年6月23日   十字架を巡る人々
マタイの福音書27章27節〜56節より
イエス様の十字架は、受難週のクライマックスとともに人類史上最大の出来事である。この十字架という出来事の動きを一歩また一歩と追うと、十字架の恥辱・屈辱と十字架の栄光を鮮明に心に印刻される。
【1】十字架周辺の人々
   @総督の兵たち
   Aクレネ人シモン
   B道を行く人々
   C二人の強盗
   Dイエスに仕えた女たち
【2】十字架上の苦痛
   @人間側の苦痛
   A神の側の苦痛
イエス様の十字架は、私たちのすべての罪の贖い、主イエス様に服従する信仰生活を歩まさせて頂きたい。 もしも、試練や困難にあってイエス様から目が離れてしまった時、はじめの愛から離れたことに気付き、戻る者は幸いである。私たちは光の中を歩み続けよう。


2002年6月16日   十字架につけろ
マタイの福音書27章1節〜26節より
イエスの裁判は、ゲッセマネの園での逮捕の後、6段階である。1アンナス家の非公式な審問(ヨハネ18:13.24)2カヤパと議会(マタイ26:57〜68)3公式裁判(マタイ27:1.2)(ルカ22:66.71)4・6ピラトの裁判(マタイ27:11〜26 ルカ23:1〜6 13〜25)5ヘロデの裁判(ルカ23:7〜12)マタイは2346を記す。
【1】ユダの対応
   @ペテロの悔改
   Aユダの後悔
【2】主イエスの裁判
   @ピラトの心情
   A群衆の応答 【3】私たちの十字架について
私たちは苦難や苦しみ悲しみをイエス様の十字架によって受けるなら、それは喜びへと変えられる。イエス様によってでなければ、苦しみは苦しみでしかありません。イエスの香りは、愛の香り、喜びの香り、平和の香り、謙遜な香りです。このような香りの務めに相応しい者として頂きましょう。


2002年6月9日   優先順位
マタイの福音書6章19節〜34節より
クリスチャンの最も特色のある強調点の一つは感謝である。特に、詩篇は感謝に満ちている。最初は困難、苦難、試練の中を通過して、終わりは神に感謝している。新約では、イエス様の贖いの恵みが加わるので、感謝はさらに大きく深くなる。もし、私たちが感謝の心となっていないなら、その原因を探し、真実に素直にはじめの愛から離れたことを悔い改めよう。自分の指で一つ一つ神の恵みを数えよう。
19節〜24節では、金銭に対する警告が、そして25節〜34節には、衣食に対して思い煩ってはいけないとあります。私たちは、よく小さなことで思い煩うことが多い。世俗的な側面からみてそのことが、不信仰へと繋がる恐れがある。思い煩うということは、信仰から離れて思い煩うことです。金銭に目をくらませてしまっては、神に仕えることは出来ません。『だれも、二人の主人に仕えることは出来ません。・・・あなた方は神にも仕え、また富にも仕えるということは出来ません。』(25節)何が一番大切なことでしょうか。神の国とその義とをまず第一に求めなさいとあります。思い煩う前に、まず神の国と義とを求めようではありませんか。思い煩いと心の平安は同居することはありません。確かに弱さの故に思い煩うこともあるでしょう。でも、私たちの弱さをも知られる神の導きが必ずあります。『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも喜ばれるのです。』優先順位は、まず神の国とその義。


2002年6月 2日   イエス様の逮捕と裁判
マタイ26章47節〜68節より
ゲッセマネの祈りは、イエス様が十字架を受ける信仰的絶対服従への苦闘の祈祷であった。その勝利後、今や、主御自身から敵の手に捕縛され、預言成就への道を歩む。
【1】イエスの逮捕
   1.ペテロの応答
   2.ユダの応答
   3.他の弟子たちの応答
【2】大祭司カヤパの裁判
   1.死刑決議(サンヒドリン)
   2.決定的の質問と応答(64節)
   3.受難の一つ成就
(結び)聖金曜日に向か勝利の道
5月31日サッカー・ワールドカップが韓国スタジアムで開幕した。アジア初開催、日本・韓国の二カ国共催も初、しかも複雑な歴史を引きずってきた日本と韓国が世界最大級のイベントをする。そのイベントの中で このチャンスを生かしてワールドカップ伝道が行われている。サッカー会場となる札幌、新潟、宮城、埼玉、横浜、茨城、静岡、神戸、大分では、『伝道フェスティバル』で満ちている。一般新聞には、報道されませんが、多くは韓国、アメリカのクリスチャンが来日している。内容は、トラクト配布、賛美チームの集会、サッカーチーム(信仰者チーム)との親善試合、教会で、サッカーを観戦しながら、交流など、様々な方法を用いて伝道している。韓国のサッカー選手は、試合開始・終了後には、輪になってお祈りをする。クリスチャンのスポーツ選手が多い。韓国教会では、スポーツ伝道に生かされ、普段の生活の中に入っている。私たちは改めて「伝道とは何か」を考えさせられる。パウロは競技場とか、ゴールとかスポーツ用語を用いて伝道した。伝道は、特別なことではないのです。


2002年5月26日   洗礼ヨハネの弟子達
ヨハネの福音書1章29節〜42節より
使徒ヨハネは、本書において「イエス様が神の子であること」を読者に信じさせることを目的に書かれました。(20章31節)また、イエス様が「わたしは・・・・・です」と言った言葉は「神の性質を主張する表現である。」ヨハネの福音書(6章35節、8章12節、10章7・9・11・14節、11章25節、14章6節、15章1・5節)
【1】イエスと洗礼ヨハネ
   @イエスはどのようなお方か
   A洗礼ヨハネの使命
【2】イエスと洗礼ヨハネの弟子達
   @イエスの招き
   A主の最初の弟子達
弟子達は、イエス様に出会いイエス様が神の子であることを信じました。イエス様のお言葉『来なさい、そうすればわかります。』に従い、イエス様を周りの人々に伝え始めました。私たちは、伝道に対してまだまだ消極的な面を持っています。どうぞ、イエス様の元に人々を集めることが出来ますように、イエス様の福音のお証しが出来ますように、主が私たちを励まし、助けて下さいますように・・・・・


2002年5月19日   七人の選出による再進展
使徒の働き6章1節〜7節より
聖霊降臨後、弟子達は聖霊に満たされた。主イエスの証人としてクリスチャンはエルサレム市内中に伝道を展開した。こうしてイエス様が弟子達に命じた第一の伝道地は、一応終えた。教会は拡大し、クリスチャンの増加と共に問題も発生したが、新しい組織・制度が生まれた。それが6章です。7人が選出され、周辺地域(サマリヤ)への伝道に広がる新しい段階に入った。
【1】教会とは何か
【2】教会組織とは何か
【3】使徒達の役割とは何か
(結び)聖霊による使徒の働きの続行
聖霊の降臨と臨在は、イエスの十字架と復活を伝える力となり、救われる人々が増加しました。初代の教会の特徴は、使徒達の教えを堅く守り、聖霊に与り、聖霊による兄弟姉妹としての交わり、パンを裂いて、聖餐による信仰強化、愛餐という食事もし、イエス様と他の弟子達との深い交わりは祈りでありました。


2002年5月12日   聖霊の交わり
コリント第一2章1節〜16節より
五月の第二日曜日は「母の日」です。この行事の起こりは、アメリカのメソジスト教会で、26年間もの長い間、日曜学校の先生を務めたジャービスという婦人がいました。ある日曜日に、「あなたの父と母を敬いなさい」という聖書の言葉を話して、「母の愛に心から感謝する方法を考え出す人はいませんか」と語りました。この日のお話を聞いていた娘のアンナは、1905年に母が死んだ後、その記念会の時に母が大好きだったカーネーションを沢山飾って、母を偲びました。このことが、列席者一同に大きな感動を与え、この話に感銘した百貨店王と言われたクリスチャンのジョン・ワナメーカーが、1908年5月の第二日曜日に「母に感謝する会」を、カーネーションを飾って盛大に行ったことから母の日が始まりました。日本では、戦後盛んになりました。『母の日』は、母の愛を思う日であると共に、神様の深い愛に心を向ける時であります。
聖霊によって生きる、聖書によって歩む道は個人的にはホーリネスの道であり、それはまた、信仰者相互間の交わりの道でもあります。真の交わりを深めよう。
【1】個人的な交わり
   @主御自身との交わり
   A聖霊との交わり
【2】教会との交わり
   @初代教会に見る交わり
   ※霊的  ※一つ心  ※主に喜ぶ
   A聖霊の結実を目指す交わり
   ※光りの中  ※愛の中  ※聖き中
   ※祈りの中  ※平和の中の交わり
クリスチャンとしての交わりの大切さ、それぞれの交わりを通して信仰の成長をさせて頂く恵みに感謝!


2002年5月5日   聖霊による歩み
ガラテヤ5章16節〜26節より
今日は子供の日です。子供達の人格を重んじ子供達の幸福をはかるとともに、母にも感謝する日です。教会は聖書を通して家庭教育のよりどころを教えています。土台となるのは愛です。大多数の父母は子供を愛しているはずです。でも、その愛が、本物かということ、いわゆる”ねこかわいがり”は本当の愛ではありません。愛することと可愛がることとは同じではないのです。愛の賛歌(第一コリント13章)こそ、家庭教育に関して最も大切なことを展開しています。膨大な財産、豪華な邸宅でなくて、美しい家庭です。その中に住む人の心が美しいのです。
聖霊の真の顕著な働きはペンテコステの日に始まりました。聖霊は旧約時代では特別な人々を満たし、特別な働きを残しました。新約時代はペンテコステ以降、信じるすべての人々に注がれました。
1.聖霊による誕生
2.聖霊による内住
3.聖霊による歩行
  @聖霊を認識して歩む
  A聖霊に相談し信頼して歩む
  B聖霊と歩調を合わせて歩む
(結)聖霊によって歩む恩恵(御霊の実)
私たちは聖霊によって歩むことによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を頂くことができるのです。ハレルヤ!


2002年4月28日   祈祷の神髄
マタイ26章30節〜46節より
イエス様は、ご自分の十字架の死こそ過越の成就であることを信じておられた。そして新しい契約に基づく聖餐式を制定されました(26〜29節)。賛美しつつゲッセマネの園に向かい、祈りの神髄へと進みました。
【1】深い苦悩の祈り
   ※悲しみ悶え死ぬほど・・・人類の罪
【2】信仰的服従の祈り(3回)
   ※みこころのように・・・神に従順
   ※神の怒りの杯・・・十字架の死
   ※切々と祈る(ルカ22:43,44)
【3】さあ、行くのです・・・祈祷の勝利
   ※神への絶対的服従による祈祷の勝利
イエス様の祈り、その切なる祈りに学ばされる所は多大です。私たちは普段、忙しいからと祈りを怠ることの多い者です。忙しい時こそ、祈りを要します。私たちはイエス様の動労者として、また供として絶えず祈り続ける者とならせて頂きたいものです。


2002年4月21日   イエス様の最高の讃辞
マタイ26章1節〜16節より
26章から27章にかけて、マタイは主キリストの受難と死について、ありのまま飾らない筆致で語ります。すべて漏らさず伝えるのではなく、イエス様は、『主の僕』として苦しみを受け、十字架につけられたイエス様こそキリストであることを明確に示したのです。
1.大祭司家での謀議(1〜5)
  @死の予告
  A議員たちの決議
2.高価な香油の注ぎ(6〜13)
  @女の行為
  A最高の讃辞
3.ユダの離反(14〜16)
  @金銭欲
  Aイエスへの不理解
マリヤはイエスの頭に高価な香油を注ぎました。その行為に弟子達は憤慨して何のためにこんな無駄なことをするのかと言いました。マリヤのしたことは、やがてくるイエス様の埋葬の準備のためでした。マリヤがいかにイエス様のことを理解し、イエス様の事を愛しておられたか、香油を注ぐ行為は無駄ではなくイエス様にすべてを与えるマリヤのイエス様への愛の表れでした。『愛は惜しみなく与える』その事が、イエス様の喜ばれる事でした。私たちもマリヤの信仰に学び、普段の生活の中でイエス様との深い交わりの中で、イエス様を愛し、イエス様が私たちに与える如くに愛を周りの方々に与える事が出来ますように。


2002年4月7日   愛−よりすぐれた賜物
第一コリント13章1節〜13節より
バイブルを日本語に訳すとき、とても苦労した言葉は『愛』でした。それまで日本語には存在しなかったからです。その言葉は、孟子の書に”仁者は人を愛し、礼有る者は人を敬す。人を愛する者は人恒に之を愛し、・・・”とある。しかし、聖書の示した愛は、もっと深くもっと高く広いアガペーの愛でした。
1.神様の愛
2.イエス様の愛
3.クリスチャンの愛
神様の愛はどんな人にも等しく与えられる愛で、限りなく豊かな愛です。神様を愛し私たちを愛し命をかけて愛して下さったイエス様。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(第一コリント13:4〜8)私たちは以前は、このような愛は持っていませんでした。神様によってこの愛を知りました。私たちも神様から頂いたこの愛を、周りの人々に同じように与えることが出来ますように。神様の愛に対する信頼と、決して失望しない希望を抱き、イエス様の愛の十字架に対する信頼を持って日々の生活を歩み続けて行きたいものです。”神の命令を守る者は決して失望させられることはありません。”


2002年3月31日   イースター記念礼拝
マタイ28章1節〜20節より
18年前の1954年の秋、青函連絡船『洞爺丸』が大きな台風の襲来を受け、沈没して多くの人名を葬り去りました。その乗客の中には、罪を犯した人や家出の人もいたかもしれません。そのような人が死んだのは、ある人は罪の報いというかもしれません。しかし、その船の中には一般市民も、学者も、牧師も、さらには福音を伝えるために外国から来られた宣教師もいました。その人々も死んでしまいました。その時、一人の宣教師は浮き袋で漂いました。近くに浮き沈みをしている一人の女性に気が付き、”あなたはイエス様を信じますか。信じていないなら、この浮き袋を持ちなさい。私はイエス様を信じているので天国へ行くことが出来ます。イエス様のよみがえりに与ります。”と、言って波の中に沈んでいきました。その方は助かり、後日教会に出席し、救われました。その方のお証しから、そのような事実が判明したのでした。さて、洞爺丸の事は、身体の死の問題です。肉体の死は、遅かれ早かれ、誰であっても一度は通過しなければならない経験です。それが霊魂の死の問題となりますと、そう簡単には言えません。なぜなら、霊魂が永遠に生きるのか、永遠に滅びるかなのです。私たちはこの洞爺丸が海中に沈む前にイエス様の船に乗り換えをしなければならない。イエス様が十字架の上で死なれ、三日後に甦って下さったのは、罪の奴隷から解放され新しいイエス様の命に生かされるためでした。十字架と復活の主キリストに身を任せない限り、聖書の言葉は私たちを束縛の中に閉じこめるだけになってしまいます。ただ沈没する洞爺丸の中から、死から復活したイエス様の船、イースターの船に信仰のタラップを渡って乗り込むことです。『主は甦られた!』復活の力です。


2002年3月17日   受けるよりも与えるほうが幸いである
使徒の働き 20章17節〜35節より
この引用聖句はパウロの告別メッセージで、教会のリーダー的立場の人々を激励した。彼の行く手に 待ち受けていたのは、患難と投獄であった。メッセージの中に、主イエス御自身が語られた御言葉を 引用して締め括ったのでした。
【1】主イエスご自身の言葉である
   イエス様のご奉仕から推察できる。
【2】初代教会形成の言葉である。
   ペンテコステ以降の働きに見る。
【3】使徒パウロ自身の生き方である。
   コリント人への手紙に見る。
今日、転勤のため教会を離れる二人の愛兄姉方をお送り致しました。たった二年間の交わりでしたが、 そのクリスチャンの模範とも言うべきお姿を拝見し、いくつもの事を学ばさせて頂きました。 別れは、とても残念な事ですが同じクリスチャンとして主にあって永遠に交わることの幸いを感謝します。 『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、又、主イエスご自身が『受けるより与える ほうが幸いである。』と言われた御言葉を思い出すべきことを、私は、万事につけあなた方に示して 来たのです。』(使徒20章35節)
愛兄姉の信仰の姿は正にこの聖句そのものでした。私たちも与える事の幸いを体験しつつ信仰生活を 送らさせて頂きたく思います。


2002年3月10日   キリストの再臨と準備
マタイの福音書 24章29節〜44節より
再臨の原語は本来「存在」を意味していたが、やがて『到来・到着』を意味するようになった。 イエス様が再び帰って来られるという信仰は新約聖書では一貫して語られています。24章では、 主はまず世の終わりの種々の災いを語り、患難、ご自身の再臨のことを予言しておられます。
1.大患難時代のキリストの再臨
 栄光の中に来られる主キリスト
2.キリスト再臨の切迫
3.キリスト再臨への準備
結び  みことばの普遍性(35節) 福音宣教の終末(13・14節)
イエス様は再び私たちのもとに来られると約束されました。それがいつ何時か私たちにはわかりません。 イエス様が私たちに示して下さった愛の中に、信仰と私たちがイエス様によって救われたという確信を 持ち続け光りの中を歩むこと。それが再臨への備えとなります。私たちはイエス様が共にいて下さること、それが何よりの励みであり慰めです。イエス様がいつ来られてもいいように私たちの信仰の歩みが整えられますように・・・。