『サムエル3章に学ぶこと』



−聖化と宣教の年−

【聖句】
『サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、
「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。
 そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、
『主よ。お話ください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」
 サムエルは行って、自分の所で寝た』
                (サムエル第一3章7〜9節)

三月は子どもたちの卒業、入学・進級準備の季節、また大人も、転勤、転任など
移動のシーズンである。親である私たちは、クリスチャンとしてばかりではなく、
家庭の責任者であり、子どもをゆだねられている。また教会においても、
それぞれの立場において責任ある奉仕に携わっている。
そのような者の一人として少年サムエルの物語を読むとき、教育と訓練の大切さを
教えられるのである。

(1)少年サムエルから教えられること

サムエルは、「まだ、主を知らず、主のことばもまだ、示されていなかった』ために、
三度も見当外れの反応を示したのである。しかし祭司エリが「主よ。お話し下さい。
しもべは聞いております。」と言いなさいと教えたので、サムエルはかすかな細い声、
か細い主の御声を聞くことができた。
ただ、実際は「主よ」と呼びかけてはいない。確信がなかったのかもしれない。
しかし祭司エリは、サムエルが、聞いたすべての事を何も隠さず話すのを見て、
「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」(18節)と、
慎重な判断をもって、サムエルが主なる神の声を聞いたという事実を確かめた。
聖書は、神がさまざまな方法をもって召しておられることを記している。
モーセは、燃え尽きない柴に近づいて、大いなる光景を見た。
ヨシュアも、敵か味方かわからない、主の軍の将に出会った。
創世記のヤコブは、妻子たちを対岸に渡し終えて、ひとりヤボクの渡し場に
残っているところで、ある人と組み合った。そして「私は顔と顔を合わせて
神を見た」と言った。
サムエルもまた、心の耳をそばだてて、神の細い声、か細い語りかけを
聞こうとしたのである。このサムエルの召しの例から、主のことばが
重要であることを教えられる

(2)祭司エリから教えられること

サムエルが初めて神の細い声を聞いた、そのみことばが、サムエル自身に
関わるものではなく、彼の恩師エリに関するみことばであったということは、
きわめて意味深い。エリの側から見れば、少年サムエルに正しく神の声を
体験させる、つまり、「まだ主を知らない」子どもに神を体験させている。
このことは、信仰教育の上からも深い教訓を与えてくれる。なにより、
14〜15歳のサムエルに神体験を期待するという早さに、私たちは
驚かされる、なぜなら、子どもが自らの魂の耳をそばだてて神の声を聞き、
人格の深みにおいて、個人的に主を知るようになるということは、
まことに難しいと思えるからだ。
さて、祭司エリは、少年サムエルに正しい指導ができた。そのヒントは、
少年サムエルが三度も「はい。ここにおります」と言って走ってきたときに、
「主よ.お話ください。しもべは聞いております。」と言いなさいと
教えたところにある。しかし私たちはどうであろうか。
中高生という最も宗教的に敏感な年頃、親や大人を批判しつつ、
自我の確立を求め始めている年齢のわが子から、神の真理と正義の声を
聞き取るチャンスを奪っていることが多いのではないだろうか。
祭司エリは、自分のもとに走って来る少年を突き放して、
人にではなく神様に心を開くように教えることで、最も大事な教育を行なった。
親離れや子どもの宗教的な巣立ちを正しくさせることに、
エリの指導は適切であった。ここまで述べてきたように、
少年サムエルの物語を読むとき、訓練と教育の大切さを教えられる。
何よりも、私たち自身が、「その方は主だ。主がみこころにかなうことを
なさいますように。」と言えるほどの鎌虚さを、真理に対して持っているか
否かが探られている。もしかすると、私たち白身が本当に「まだ、主を知らない」
のではないかと思われるのである。「主よ。お話ください。しもべは聞いて
おります。」と言う必要があるのは、すでに主イエス様を知り、召され、
選ばれて年久しく信仰生活を送っている、私たち自身なのかもしれない。アーメン

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