『最高のプレゼントは愛』
−聖化と宣教の年−
【聖句】
『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』
(ヨハネ第一4章9・10節)
今日まで私たちは、アドベント(待降節)霊想の日々を意義深く過ごして来た。ハレルヤ!
この時季、イエス様抜きのイルミネーションがあちらこちらに輝いている。
25日には、「クリスマス、おめでとうございます」と言葉を交わして
クリスマスを祝うのが一般的だろう。だがクリスマスを祝福することは、
必ずしもクリスマスを感謝することと同じではない。
そもそもクリスマスは、神の御子・キりストがお生まれになった喜びの日だが、
なぜ神の御子がこの世に誕生されたのかを知っている人は、必ずしも多くはないのだ。
それではなぜ、神のたったひとりの最愛の御子は、暗く、罪と争いと憎しみに満ちた
この世に来られたのだろうか。
その答えはただ一つ、私たちを罪と死の奴隷状態から、また、滅びの中から
救い出すためである。このアガペーの愛がイエス様において宿された日、
これがクリスマスなのである。
【1】飼葉おけに降る神の愛
教会では、キリスとの御誕生のことを「降誕」と呼ぶ。それは”神によってこの地上に
降ろされた出来事”だからである。神は栄光の座におられた方を、どこまでもどこまでも
低く地上に、しかも飼葉おけにまで降ろされた。イエス様の降誕は、はなばなしいものではなく
ひっそりと、かつ質素なものだった。
ここに神の愛は、人間のあらゆる偏狭さ、人間のあらゆる心の壁を打ち破ってくださった。
そしてさらに、すべての人が神の愛に平等に招かれ、生かされる世界をも実現してくださったのである。
【2】神の性質の聖い愛
今日、『愛』という言葉が氾濫している。クリスマスの日に届けられた神からの最高の
プレゼントである神の愛は、そうした愛とは質的にまったく異なる。
この神の愛は、この世の暗い罪や汚れにも侵されない、神の性質を持つ聖い愛である。
この日にこの世に宿された神の堅い愛は、何ものによっても害されたり、
毒されたりすることのない愛である。
この聖い愛から出る光は、「世の愛の光」なる神の御子・イエスであられる。
この「クリスマスの光」には、この世の如何なる力をもっても勝てない。
それは、「聖い光」だからである。この「聖い光」がこの世の罪と汚れの中に来てくださったこと、
罪の奴隷になっていた私たちのところに来られて宿ってくださったこと、
ここにクリスマスの光輝がある。
私たち白身が神の聖い愛をいただいて聖くされる時、神の力を受ける。
それは人と争って相手を打ち負かす強い力ではなく、人を愛していく力、人を赦す力、
いろいろな問題に耐え抜く力である。
今この時代には、政治も産業界も、あらゆる人間の営みが聖さを失っているのではないだろうか。
どのような変革がなされても、肝心の人間の心が聖くされない限り、やがてまた元に戻るだろう。
クリスマスの日に届けられた聖い愛こそが、私たちの心の泉を堅くしてくださる。
【3】十字架の犠牲を喜ぶ愛
神の愛は、私たちの罪のために「なだめの供え物(十字架)」として届けられたのである。
つまり、神の愛は、犠牲を喜んで引き受けていく愛である。
イエス様の御生涯は、インマヌエル賛美歌153番「まぶねの中に」の第三節に
「すべてのものを 与えしすえ 死のほか何も 報いられで 十字架の上に
あげられつつ 敵を赦しし この人を見よ」と歌われている。
このイエス様の尊い「犠牲の愛」「十字架の愛」が成し遂げられ、そのことのゆえに
私たちの罪が赦され、救いが成放したのである。この「犠牲の愛」を神は喜んでくださった。
今の時代、もうけようもうけようとして、結局は大損していく。目先の金もうけに走り、
人間の霊魂をかえりみないことの愚かさに少しも気づこうとしないのは、
なんと悲しいことだろうか。クリスマスの日に送り届けられた神の犠牲の愛をいただく時、
私たちもまた、小さく無力ではあっても、その愛に押し出され動かされて、
少しの犠牲でも喜んで引き受ける者とされていく。
クリスマスの最高のプレゼント「それは神の愛である。この神の愛を私たちが
信仰によっていただき、体験して、お互いに分かち合っていくようにと、
イエス様は降誕されたのである。あなたも、この不安な時代に愛と希望の灯火をともしていく
人になっていただきたい。アーメン。