『クリスマスの奥義』



聖句 
『人の子(イエス・キリスト)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』  マルコ10章45節


クリスマスと言うと、日本ではクリスマス・ケーキ、ツリー、イルミネーション、リース、ポインセチア、そしてサンタ・クロース 歌では、「赤鼻のトナカイ」「サンタが街にやって来た」「ジングル・ベル」等々です。クリスマスのお祝いには全く関係ない北欧の風習もあります。愛兄姉方はご存じのように、傍系的なクリスマスが私たちの社会です。真のクリスマスをお祝いし、伝えるのがクリスチャンの責任ではないかと思う。

【1】仕えるための御降誕

全ての人間は自分の存在価値が認められ、仕事や勉強などについても周囲の人々から良い評価を受け、成功したいと思うものです。
これは人として自然な希望であり、欲求であり、感情であります。それゆえ、そのような気持ちになることは問題ではありません。
それが成功することや競争に勝つことのみに生きていこうという人生の目的や価値観に心が占有されますと、信仰の世界は
実にわからなくなってしまいます。特にクリスマスは、最もわかりにくい出来事なのです。
イエス様の誕生は、”仕えるため”なのです。何故なら、クリスマスとは神であられる方が栄光の座から降り、 その身体を徹底的に低くされたこと(主の謙卑)だからです。
真のクリスマスの本質は、「キリストあ、真の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2:6・7)と使徒パウロは言っています。
神の座におられたイエス様が人間性をとってこの世界に降りてこられた神の御姿であり、身を低くし、「ご自分を無にして仕える姿」をとって来られました。正にクリスマスです。
神の栄光は、下へ下へ降りることによって、栄光を現して行くが人間は上へ上へ上がることによって栄光を得ようとします。 正反対です。
ですから、人の賞賛や名誉を価値観とする人にはクリスマスの真実はわからない。もし私たちが、こんも降誕節に悲しみや苦しみの中にいる人のために祈り、主の慰めと愛となるような行動をするならば、それこそ、「イエス様と共に下に降りていく歩み」となります。
たとえ一通の手紙、一本の電話、またささやかな贈り物であっても、受けた人の心とたましいを慰めるなら、本当のクリスマスの訪れです。
また、教会員間の信頼関係は仕え合う事から生まれます。イエス様は「何事でも、自分にしてもらいたい事は他の人にもそのようにしなさい。」と言われました。このようにしてイエス様に仕える日田は、神に喜ばれ、また人々にも認められる信頼される人になります。

【2】贖罪のための御降誕

この世において「死ぬために生まれた人」はいないでしょう。私たち人間は、みんないつかは死ななければなりませんけれども、実際には、人間は「生きるために生まれる」というふうに思っています。イエス様だけは「死ぬことを目的にして生まれた人間でした。」
冒頭の御言葉には、「贖いの代価として、イエス様のいのちを与える」ために誕生したと。
新しく生まれた子供の弱々しい肩の上に、この世のあらゆる重荷が負わされています。すなわち人間の惨劇、苦悩、孤独、困窮、罪責から、人間自身の罪と死を十字架によってこの子供の肩の上に負わせているのです。
人間の罪を贖うために誕生なさたのです。それは十字架という呪われた死刑方法でした。
罪のないイエス様は十字架の上で罪のためにさばかれる私たちの身代わりとなられて死なれました。
罪にくるしみ沈むすべての人の救い主とあんるためだったのです。更に、死から復活され、今も生きていて、主を信じる者には救いを提供しています。
クリスマスの奥義は、あなたの心の中に主イエス・キリスト様がお生まれになった日のことです。




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