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恵みのしずく



「主は、エドムについて」         2012/1/8

   神である主は、エドムについてこう仰せられる。
   ・・・「立ち上がれ、エドムに立ち向かい戦おう。」
                         (オバデヤ1:1)

 1章だけの短いオバデヤ書には、ユダの隣国エドムに対する厳しい預言が記されています。
エドムはユダがバビロニアに侵略された際、隣国のよしみで憐れみを示すどころか、逆に傍観しあざ笑い神の民の敵となりました。
 彼らが目を留めていたこと、誇っていたものが・・・「住まい」・「宝」・「同盟者」・「知恵ある者たち」・「勇士たち」(3〜9節)・・・と、いくつでも挙げられています。
 彼らのように、神よりも人を、見えないものよりも見えるものを、いのちよりも持ち物を見つめて、目先のことに価値を置く生き方への警戒を教えられます。
それは、やがて厳しい主の審判に直面することなのです。
エドムの高慢について、さばきを宣言なさる方、主ご自身を見上げて従い進みましょう。
「主を求めて生きよ」         2011/11/13

   主を求めて生きよ。・・・善を求めよ。悪を求めるな。
   そうすればあなた方は生き、あなたがたが言うように、
   万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。
   ・・・正義をいつも水の流れる川のように流れさせよ。
                (アモス5:6、16、24)

 主は「わたしを求めて生きよ」と主の民に語られました。しかし、御心を 悲しませるような生き方をする彼らを見つめ、主は彼らのささげ物を「喜ばない」とおっしゃいました。
 私たちは日々、何を求めて生きているでしょうか。私たちが主におささげする「物」や「事」や「時」などは、 私たちの心からの愛と献身を伴ったものでしょうか。
私たちの生活のすべてが「主を求める」ことで綴られているでしょうか。
その細部に至るまで、愛と正義がおよぶようにと主は語っておられます。
「主が語れるから」         2011/10/30

   獅子がほえる。誰が恐れないだろう。
   神である主が語られる。
   誰が預言しないでいられよう。
                (アモス3:8)

 同時代の預言者ホセアが神様の愛を語ったのに対して、アモスは「重荷」を意味するその名のとおり、 イスラエルに対する重荷をもって、主のさばきと正義を語りました。
その理由を彼は、「主が語られる」からであると述べました。
彼は黙っていることができないほどリアルに、御声を聞き、主のみこころを真っ直ぐに語ったのでした。
 日々、御旨を示してくださる方のおことばをとらえ、その中に生き、 語り伝える者とならせていただきましょう
「刑罰を取り消さない」         2011/10/9

   主はこう仰せられる。…そむきの罪のために、
            わたしはその刑罰を取り消さない。
                (アモス1:3)

 南王国ユダ出身のアモスは、北王国イスラエルヘ出かけて行き、その 罪を指摘し、神の審判を預言しました。
 彼が活躍した時代は、ヤロブ アム2世が王位にあり、物質的には最も繁栄していましたが、霊的には 堕落し悪行が重ねられていたときでした。
 アモスは、いちじく桑を栽培していた牧者で、神さまから直接、預言 者としての召しを受けました。
彼は平易なメッセージの中に、「罪の刑罰 を取り消さない」と仰せられる主の厳しい言葉を、ためらうことなく明確 に語っています。
 主のさばきの事実を厳粛にとらえ、滅びの中から救われた喜びをうち に湛えつつ、みこころを伝える者でありたいです。
「今、立ち返れ」         2011/09/25

  しかし今、・・心を尽くし・・わたしに立ち返れ。
                (ヨエル2:12)

 ヨエルは、いなごの災害の中に、「主の日」を見ました。
生まれながらの状態で、このさばきの日に神様の前に立ちおおせる者はいません。
 そのことが、いなごによる徹底的な破壊の描写に表されています。
 しかし、一転して上記の悔い改めのメッセージに続き、憐れみによって、 主に立ち返る者に回復がもたらされることが記されています。
それは、心の底から真実な悔い改めがなされたあとに与えられる祝福です。
「今」とおっしゃる神様の語りかけに、心を尽くして従わせていただきましょう。
「主の日に備えて」       2011/09/18

  この国に住むすべての者を、あなたがたの神、
           主の宮に集め、主に向かって叫べ。
           主よ。私はあなたに呼び求めます
                (ヨエル1:14、19)

 ヨエル書に書かれている、いなごの災害は、神の刑罰への警戒として「主の日」を予表しています。
ヨエルはこの日に備えて、人々に悔い改めを迫り、主に祈るようにと勧めています。
そして、それを告げるだけでなく、彼自身が彼らのために執り成し、主に嘆願しています。
 私たちも彼らのように人々を愛し、主を知らず、滅びに向かう彼らの為に心を痛め、 祈りつつ恵みを運ぶ者でありたいです。
「喜んで愛する」       2011/09/11

  わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。
           わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。
                (ホセア14:4)

 ホセア書は、イスラエルの回復を歌って締め括られています。
アッシリヤや自分の力、偶像に頼っていたことを悔い改めたイスラエル は、「あなたによってだけ」(3節)と主に告げています。
 そして、その心からの告白に神さまは喜んで赦しを与えておられます。
4節以降には、彼らへの祝福の約束が記されています。
これは、一方的なそして豊かな主の恵みですが、同時に、人の側でするべき大切なことを示しています。
 主からの語りかけを受けた私たちが、それにこたえて、謙遜な態度を もって主の前に出ることによって、主と繋がり、私たちに恵みの活力が 与えられるのです。
 主と主のことばに真実に応答し、従う者とならせていただきましょう。
「彼らの心は高ぶり」       2011/08/28

  このわたしは荒野で、かわいた地であなたを知っていた。
           しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、
           彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。
                (ホセア13:5,6)

 11章にも語られていたように、主はイスラエルの民を、牧者として 養ってこられました。
しかし、彼らはその御愛と恵みを忘れ、再び罪の 中に落ちていき、主からの怒りを受けなければならなくなりました。
 人は試練の中で神さまに拠り頼み、心から祈り求めて、み守りや導き に感謝するものです。
しかし、問題が解決し、充分に満たされると「荒野 のかわいた地」で、ともにいてくださった主を忘れ、いつしか自分を誇る ようになってしまう危険があるのではないでしょうか。
 どんな時も、主の恵みを忘れることなく進ませていただきましょう。
「立ち返り、待ち望め」       2011/08/21

  あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り
      絶えずあなたの神を待ち望め。
                (ホセア12:6)

 この章には、アッシリヤやエジプトなどに依り頼み、偽りの生き方を しているイスラエルの民に対して、神さまに立ち返るようにとの勧めが 告げられています。
前半には、イスラエルの先祖であるヤコブの経験が 引用され、ヤコブを見捨てず、彼に伴い続け、彼を変えてくださった主 の恵みが語られています。
 この恵みの主に立ち返り、信頼をもって、その御愛の中に自らを保た せていただきましょう。
「見捨てることができない時」       2011/08/14

  イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。…
      わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
                (ホセア11:8)

 この章は、ホセア書の中の愛の章です。
イスラエルの歴史をさかのぼって、神さまが彼らをどのように愛し養ってこられたかが記されています。
愛し、呼び出し、教え、抱き、いやし、導いてくださった、羊飼い である主を忘れた彼らへの、神さまの熱いみ思いが記されています。
 罪をさばく権限をお持ちでありながら、罪人をも見捨てないとおっしゃる方の 御愛とあわれみを知り、感謝しつつ歩ませていただきましょう。
「今がその時」           2011/07/31

  あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。
  ついに、主は来て、正義をあなたがたに与えられる。
                (ホセア10:12)

 この章にも、主を知りつつ、他のものに心を向けているイスラエルの罪が指摘されています。
彼らのそのような状態が「二心」(2節)と表現されています。
神様は彼らに、ご自身に立ち返るようにと悔い改めを迫り今がその時だと語っておられます。
 私たちも、神様が示していてくださる事に気付いているのに、その静かな御声に従う時期を遅らせて しまっていることはないでしょうか。
そのような私たちにも神様は「今が、主を求める時」と促していて下さいます。
 今週は聖会が行われますが、その恵みの場所へ招いていてくださった主が 語って下さることに、お応えさせていただく「時」であることを思いつつ、期待をもって参加いたしましょう。
「彼らを退ける」           2011/07/24

  私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。
                (ホセア9:17)

 神さまが、人を退けるとおっしやる理由として、「聞き従わなかった」 ということが言い渡されています。
 私たちは皆、何をどれだけできたかということではなく、土の語りか けに、どれほど耳を傾け、その声にどのような応答をしてきたかという ことを、主の御前で問われるのです。
主は私たちが、ご自分のみ二ころ の中を歩んでいるかどうかを見つめておられ、問いかけていてください ます。
このお方を知っている者として、御前に真実に歩ませていただき ましょう。
そして、まだ主をご存知ない方々に、救いの恵みを証しする とき、審きをおこなわれる主のみ二ころをお告げ、主に従う喜びを語る 者でありたいです。
「造り主を忘れる」           2011/07/17

  イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、
           ユダは城壁のある町々を増し加えた。
                (ホセア8:14)

 8章には、主の教え、善、主のご存在さえ拒み、自分たちの奸きなように生きた 民の罪が指摘されています。
 彼らは、我欲と高慢な思いに占領され、誤った自由に心を奪われて、 自分たちの目に、生産的で有益と見えることばかりをう追い、主が示され ることに目を伏せて生きました。
そしてついには、彼らが「自分の造り主を忘れて」しまったことと、「多くの神殿を建て…町々を増し加えた」とい う、彼らの物質的な結果が悲しく記されています。
 常に私たちの在り方を照らし出し、教え導いてくださる主の光に、素 直に従い進む者とならせていただきましょう。
「消極的な背き」           2011/07/10

  彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、
           こうなっても、主を尋ね求めない。
                (ホセア7:10)

 前章から続いて7章にも、主に立ち返ろうとしないイスラエルの姿が 記されています。
彼らが次第に信仰の道から外れていったことの原因の……-つは、 「…しない」という消極的な態度であったことが読み取れます。
「言い聞かせない」、「やめている」、「呼び求めない」、「気づかない」、「立 ち返らず」、「尋ね求めない」、「叫ばず」という、彼らの状態が指摘されて います。
 主から、「生焼けのパン菓子」と言われてしまった彼らのように、「消極 的な背き」に陥ってしまうことがないよう、怠らずに真摯な信仰の態度 を主の前でとり続ける者でありたいです。
主に繋がり、主に喜ばれる道を進ませていただきましょう。
「私も、あなたにそうしよう」           2011/06/26

  これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫したり、
           ほかの男と通じたりしてはならない。
           私も、あなたにそうしよう。
                (ホセア3:3)

預言者ホセアは神さまに命じられ、姦淫の妻ゴメルを買い戻し、上記 のように彼女に優しく語りかけました。
 彼が経験した痛みや苦しみ、犠牲は、神さまがイスラエルに、 またすべての人に対して抱いておられる 愛をあらわしています。
 それは、愛を汪いでくださった方ご自身を裏切った者を、なお、追い 続けてくかさる愛です。
愛されていることを忘れてしまった者を捨て去 らずに、代価を払って取り戻してくださる愛です。
 この愛の交わりの中に留まるよう、私たちを招き続けついてくがさる 主のお声が、[私も、あなたにそうしよう]と言ったホセアの言葉を 通して響いてくるようです。
 主の愛に憩い、喜びの日々を歩ませでいただきましょう。
「恵みと憐れみの御声」           2011/06/19

  わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。・・
           恵みと憐れみをもって契りを結ぶ。
                (ホセア2:19)

 神さまはホセアを通して、イスラエルの状態を「姦淫」にたとえて指摘 し、[取り除く]ということを語られます。
イスラエルの人々を偶像から引き戻すためには、彼らが偶像から与えられたと信じている物質的繁栄 を差し止める必要があったからです。
 神さまがこのようになさるとき、主が垣を立てて私たちを退けてしま われたように感じることがあるかもしれません。
 しかしそれは、主が私たちへの心づかいをお止めになったからではなく、私たちをご自分の もとに引き戻すことを切望なさるお方だからなのです。
 この書に響いている罪人への厳しい告発は、その上うな者をさえ取り 戻したいと望まれる主の、恵みとあわれみの御声であることを知らされ ます。
「主の愛と憐れみの物語」           2011/06/12

  彼らは「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、
           「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。
                (ホセア1:10)

 ホセア書の中心テーマは神様の愛と憐れみです。
この書には、ホセアと「姦淫の女」と呼ばれた妻ゴメルの物語の中に、もう一つの物語――
偽りの神々へ身も引き渡してしまったイスラエルの民をも愛し、 彼らが立ち返るようにと語られる主のメッセージ――が綴られています。
 ホセア書を学びつつ、主の愛と憐れみの物語が、私の人生の「実話」となったことを感謝し、 主の計り測り知れない恵みをさらに味わい知らせていただきましょう。
「ヨセフの涙」           2011/05/29

  ヨセフは彼らの ことばを聞いて泣いた。
                (創世記50:17)

 ヨセフの兄たちは、それまでのヨセフに対する悪事のゆえに彼を恐れ、 父の遺言であったから…と偽って、彼に赦しを求めてきました。
彼らの 暗く狭い心は、ヨセフがすでに示した赦し(45章)を信じることができな かったのです。
 ヨセフは憂いの涙を流し、疑いと恐れに捕らわれている 兄弟を前にします。そこで彼の口から溢れたのは、友だけが語り得る、 慰めと優しい言葉でした。
 ヨセフの姿から、イエスさまのご愛と涙を思います。
主は十字架の死 によって、赦しの保証を明らかにしてくださいましたが、私たちはそれ を受け取らない罪人でした。
 しかし、主は優しく語り続け、私たちを、 主の赦しと恵みを知る神の子と変えてくださいました。
 イエスさまのご愛を心に覚えつつ歩みましょう。
「ユダの祝福」           2011/05/22

   「王権はユダを離れず、・・・
            ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」
                (創世記48:15)

 ヤコブは、臨終の前に息子たちを呼び寄せ、12部族の将来を語り、 それぞれにふさわしい祝福を与えました。
 その中の、ユダに対する祝福の言葉を見つめつつ、神さまのみ二ころ について教えられました。
 神さまは、罪に落ちた人類に対して、救い主を「女の子孫」から遣わす ことを語られ主した。その子孫が、この章でユダ族の中から出ることが、 上記のようにヤコブによって預言されています。
 ユダとは、ヤコブが結婚を願わず、その後も嫌っていたレアから生ま れた息子でした。このユダがキリストの系図に入ったという事実は、私 たちに、神さまのみこころは、私たちには想像すらできないような展開 で、しかもそれが、マイナスとさえと思われるような現実の中になお、 進められ定められていることを教えているのではないでしょうか。
 また、ユダが、かつてヨセフを売ろうとしたことを悔い改め、弟ベニ ヤミンのためには自分を差し出すほどに変えられた人物であったことを 思うとき、確かな揺るぎないご計画を遂行される方が、小さなひとりひ とりの心を見つめておられることをも知らされます。
 主権者なる主を畏れつつ、歩ませていただきましょう。
「私の羊飼い」           2011/05/15

          「…きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」
                (創世記48:15)

 ヨセフとその子らへの祝福の祈りで、ヤコブは神さまを「私の羊飼い」 と呼んでいます。
ヤコブは羊飼いでした。彼は、自分自身が羊のように 弱く、飼い主の細やかな世話を受けなければならない存在であること、 また、主が羊に愛を注ぎ養われる、良い羊飼いであることを、誰よりも よく知らされていたと思われます。
彼は、この羊飼いの恵みと導きが、 振り返った生涯の日々にも、これからの道程にも、継続的で絶えること がないと頷きながら、「ずっと」と表現したのでしょう。
 年老いた彼の視力は衰えていましたが、彼が見上げでいる主との間を 遮るものはなく、彼の目に、主の恵みの事実とみこころがはっきりと 映っていたことがわかります。
 私たちも「私の羊飼い」である主を知り、その豊かなお養いと導きに 従って、喜びの日々を歩ませていただきましょう。
「母の日のはじまり」           2011/05/08


アメリカのバージニア州のウェブスターという町の教会に、長年、子 どもの教育のために奉仕した先生がいました。
クララ・ジャービスというその婦人が、ある日曜の朝、子どもたちに十戒の中の「あなたの父 と母を敬いなさい」について語ったあとで「皆さんも、お母さんの大きな 愛に対して、心から感謝を表わす方法を考えてみてください」と言い ました。
この話を彼女の娘アンナが聞いていて、母の言葉を深く心に 留めていました。
その後ジャービスは亡くなり、追悼会が行われたとき、 アンナは母への感謝をこめて、たくさんのカーネーションで教会を飾り ました。
彼女の心づかいは、人々に深い感動を与え、やがてクリスチャ ンで、当時、百貨店王と言われていたジョン・ワナメーカーの耳に入り、 彼のデパートで「母の日」を記念する催しが始められました。
これが全米に広がり、1908年、当時の大統領によって、国の記念日として定め られ、日本でも、1923年から祝われるようになりました。
「静けさの中に」 (A・K)        2011/04/24

          「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、
           実に、神なのです」
                (創世記45:8)

 最近、「静けさ」ということを思い巡らす中で、創世記45章5〜8節 は、まさに、主の前での静けさを知っている者の言葉であると教えられ ました。
 エジプトでヨセフが過ごした日々は、混乱させられたり、叫びたくな ったり、誰かのせいにしたくなるようなことの連続でした。
しかし彼は、それらが神の摂理であるとの頷きと、主への信頼という[静けさ]の中に、 自らを置き続けて忍び通しました。
そしてこの時、すべての試練の発端で あった兄たちの仕打ちさえも、「神が、あなたがたより先に私を遣わして くださった」と言い、彼らを一人残らず赦すことができたのです。
 またこの章の終わりには、かつて夢に見た通り、神のご計画とお約束の実現 を、彼が自分の身に体験したことが記されています。
 今、私たちはどのようなところに置かれているでしょうか。
ヨセフのように、常に「静けさ」の中に生きる者でありたいです。
「ユダを変えた恵み」 (A・K)        2011/04/17

          「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの
奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」
                (創世記44:33)

 ベニヤミンの袋からヨセフの杯がみつかっかとき、ヨセフは、ベニヤミンを奴隷にすると兄たちに言い渡しました。
 すると、ユダが必死に 執り成し、上記のように、白分がベニヤミンの身代わりにると申し出ました。
 かつて、ヨセフを売ろうと言った兄の心は、これほどまでに変えられていたのです。
神さまは、どのような冷たい汚れた心の者にも語りかけてくださり、主のほうに向き直り、愛に生きることができるよう変えてくがさるお方 です。
この恵みが、今もすべての人に注がれていることを覚えつつ、私たちの恵みの体験を証しさせていただきましょう。
「神があなたを恵まれるように」 (A・K)        2011/04/10

          「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」
                (創世記43:29)

エジプトで高位についたヨセフは、その立場を使って兄たちを罰することもできましたが、 再会のとき、ヨセフの心は彼らへの愛と赦しに満ちていました。
兄たちは、自分たちをもてなす宰相が、ヨセフであることさえ気付かず、不安な思いで食卓に付きました。
この場面に、罪人の姿と神様のみこころが映し出されているようです。
また、ヨセフが末の弟ベニアミンに対して言った、上記の言葉が心にとまりました。
彼が胸を熱くして口にした「神の恵み」が、長い困難と孤独の年月、彼を支え続けたことが証しされているように感じます。
この「神の恵み」こそが、兄たちに赦しを与えられる人へとヨセフを育てたのでしょう。
私たちも、恵みの主に信頼しつつ前進させていただきましょう。
「神の霊の宿っている人」 (A・K)             2011/03/27

          「神の霊の宿っているこのような人を、
           ほかに見つけることができようか。」
                (創世記41:38)

 ヨセフについて、パロは上記のような評価を家臣たちに告げました。
この「神の霊が宿っている」という言葉から、ヨセフが自分の能力では なく、神さ様のお力を証ししたということがわかります。
 彼にこの機会が与えられたのは、ヨセフの期待に反して、献酌官が ヨセフの事をパロに話すのを忘れたまま2年も経った頃のことでした。
ようやく、パロの夢を解き明かすという時が訪れたわけですが、ヨセフ は その力が、神様によるものであるとの納得のもとに行動しました。
そしてそれは、さらなる恵みのみわざへと繋がる事となったのです。
 私たちが、様々なところを通過する中で、主が私のすべてであること を知りつつ生きるなら、彼のように主を証しし、なお多くの実を結ぶ者 と成長することができるのです。
  「神の霊の宿っている人」であるようにという、神様の私たちへの ご期待と使命は、ヨセフのように、最悪と感じているような状態のとき にさえ、この身に向けられ続けていることを覚え、進ませていただきま しょう。
「神のなさること」 (A・K)             2011/03/13

          「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか…」
                (創世記40:8)

 これは、王の献酌官長と調理官長が夢を見て、「それを解き明かす人 がいない」と言ったときの、ヨセフの答えです。
 この聖句の、「神のなさること」という言葉が心にとまりました。
 彼らは皆、同じ牢獄の囚人でした。ヨセフは、そのような場所でも、 神の御臨在とご支配を自然にとらえ、信じること、そして、その事実を 堂々と口にすることができる人物であったことがわかります。
また彼は、夢の解き明かしという賜物を持っていましたが、その力さえも自分 のものではなく、神のものとして証しすることができていました。
それは、彼がどんな境遇にあっても、主との交わりという恵みの中に生きて いたからでしょう。
 彼の物語の随所に記されている「主が彼と共におられた」という事実 は、どんなときにも変わらない彼の在り方であったと頷かされます。
 私たちも、共にいてくださる方を なお知りつつ、その方の「なさる こと」に信頼して進ませていただきましょう。
「どんなときにも」 (A・K)             2011/02/27

          「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
          さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。…」
          …そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。
                (創世記37:26〜28)

 37章から、ヨセフの物語がはじまります。
 父ヤコブから格別に愛されているヨセフが、ある日、夢について語る のを聞き、兄たちはいっそう彼への妬みをつのらせます。
彼らは、「あれの夢が、どのようになるかを見ようではないか」と、ヨセフを殺そうと 謀りますが、ルペンの言葉によって命はとらずにヨセフを穴に投げ込み ました。
聖書には、その穴に水がなかった事、また、上記のユダの提案 に他の兄たちが同意したそのときに、商人が通りかかった事が記されて います。
これらの記述から、最悪の事態と思われる中にも、一切の権威 を持つお方が共にいてくださることを知らされます。
 試練や悩みの中にあるときには、主のご支配とご臨在の事実を忘れて しまいやすい私たちですが、主ご自身から目を離さないで進み、私たち の思いをはるかに越えた、主のご計画の実現と恵みを味わう者とならせ ていただきたいものです。
「立ってベテルへ」 (A・K)             2011/02/20

          私たちは立って、ベテルに上って行こう。私は、そこで、
          私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも
          私とともにおられた神に祭壇を築こう。
                (創世記35:3)

 前章に記されている、ヤコブとその子らの霊的弛緩による事件のあと、 神様はヤコブに、「立ってベテルに上り、そこに住みなさい」と言われま した。
その命令に従おうとしたヤコブが再認識したことは、主のご同行 の事実でした。 彼は上記の言葉どおり、主と初めてお会いした場所、 ペテルヘ戻り、信仰の原点に立ちかえって祭壇を築きました。
 絶えず ご同行くがさる神様は、私たちを近くで助け守ってくがさる 方であるとともに、主にふさわしくないところを気づかせ、捨て去るよ 引こと鋭く語ってくがさる主です。
ヤコブのような更新を与え、私たち をご自身に似たものと造り変え続けてくださる主に、従い前進させてい ただきましょう。
「光の中を」 (A・K)             2011/02/13

          あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民…
          の憎まれ者にしてしまった。 私には、少人数しかいない。彼らが
          いっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も
          根絶やしにされるであろう。
                (創世記34:30)

 昨年から、折り会で連続してきた創世記からのメッセージは、34章 まで進みました。 ヤコブの子らが起こした事件について記されている この章を通して、主は私たちに「警戒」を語っておられます。
 ディナが上地の娘を訪ねた理由は、詳しく書かれていませんが、その 行動によって、彼女自身は辱めを受け、兄たちを激しい怒りへと陥ら せ、父を悲しませました。
兄たちは怒りにまかせ、「割礼」という神聖な 事柄を、偽りに満ちた企てに利用し、祝福の地シェケムを報復の地と してしまいました。
これを知ったヤコブも、上記のように、「私」と繰り 返しながら、かつて「あなたを守り…連れ戻そう」と約束してくださった 主を見失っています。 彼らは僅かずつ、やがて大きく、みこころの道 から逸れていったのでしょう。
 聖霊の小さく細い御声に敏感に耳を傾け、その光の中を真実に従い 歩むことによってのみ、「真にすぐれたものを見分ける」力が、主から 与えられることをおぼえましょう。(ピリピ1:10)
「主の手に陥ること」 (A・K)          2011/01/30

          主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。
          人の手には陥りたくありません。
                (Uサムエル24:14)

 ダビデは、その生涯の終わりに、人口調査を行いました。それは、王 として当然の務め、また軍事上の目的をもったものでしたが、神さまが お命じになったことではありませんでした。
主はダビデに、部下ヨアブの諌言を通して語られますが、彼は調査を断行しました。
そして、結果報告を受けた後、良心のとがめを感じ、主の前に心を砕かれました。
 そのようなダビデに、神さまは三つの選択肢を示して、彼をテストされました。
ダビデはすぐに、「主の手に陥ること」を選びました。
 神さまとの関係の問題である罪を自覚し、失望と苦悩を味わった彼は、 そこで本当に「主の手に陥ること」を知り、その幸いと平安を体験したの です。
 どのような時にも、私たちには「主の手に陥る」という選択ができます。
それは、みことばにあるように、主の深い憐れみによるものです。
日々、主の御手に委ねて進みましょう。
「わが家は神とともに」 (A・K)          2011/01/23

          まことにわが家は、このように神とともにある。
          とこしえの契約が私に立てられているからだ。
          このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、
          私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。
                (Uサムエル23:5)

 この章には、ダビデの最後の言葉が記されています。人生を振り返っ て、様々な出来事そのものではなく、そのあらゆる場面に、神と共にあ 幸いを顧みることができる者は幸いです。
 主が、常に私たちに伴ってくださり、私たちを育て上げてくださる方 であることを、神との交わりの中を歩みつつ知らせていただきましょう。
「ダビデは主に歌った」 (A・K)          2011/01/16

          主が、ダビデのすべての敵の手…から彼を救い出された日に、
          ダビデはこの歌のことばを主に歌った。
          彼はこう言った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主…」
                (Uサムエル22:1,2)

 波乱に富んだ生涯の晩年を迎えたダビデは、多くの試練や困難を越え、 敵の手から救い出された日に、主に向かって讃美しました。
 彼は、「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが盾、わがやぐら…」 と、揺るぎない信頼を告白し、呼び求める者に答えてくださる主の恵み を歌っています。
何度も使われている、「わが」という言葉に、ダビデが、 最も近くにおられるリアルなお方として主を実感していることが表現さ れています。
サウルからの熾烈な暴虐を潜り抜けてきた彼の生涯を見る とき、生ける神を体験する恵みの機会は、「苦しみの中に」(7節)こそある ということがわかります。
 どのようなときにも主を呼び求め、主ご自身を知り、その恵みを歌う 者でありたいです。
「神さまの祝福の御業」 (A・K)          2011/01/09

          こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、
          ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、
          すべて王が命じたとおりにした。
          その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。
                (Uサムエル21:14)

この章には、サウルの子孫の処罰が記されています。
この処罰は、かつて、ヨシュアの誓いを破ってギブオン人を殺した、サウルの罪の償い のために行われました。
上記の聖句は、ダビデ王が命じてそれを終えた とき、神さまがイスラエルの国の折りを聞かれ、飢えの災いから彼らを 解放されたことを示しています。
 このみことばから、神様が、約束を重んじられる方であるという事、 罪を見過ごしにされない方であることがわかります。
 イザヤ書(59:2)には、「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなた がたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてく がさらないようにしたのだ。」という言葉がありますが、私たちが罪を 認め、悔い改めて主を仰ぐとき、隔たりは取りのけられ、、神さまの祝福 の御業が始まることを、サムエル記の記事は証ししています。
「主に目を向けるように」 (A・K)                   2010/11/21

          私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者のひとりです。
          あなたは,イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。
          あなたはなぜ、主のゆずりの地を、のみ尽くそうとされるのですか。
                (Uサムエル20:19)

ユダとイスラエルの間の、王に関する抗争の中に、シェバが反逆し、
イスラエルの人々はダビデから離れて彼につきましたが、ユダの人々は主に従いました。
シェバのいる町を包囲したヨアブに町の危機を冷静に捉えた一人の女が叫び訴えました。
彼女のこの言葉は、「主のゆずりの地」である町を守るための、知恵ある言葉でした。
この婦人は、自分たちの権力や安全の主張にとらわれ、神を見失っている人々の思いを、
主に向けさせることによって、彼らに自分たちの行動がどのようなものであるかを考えさせました。
彼女は盲目になっている民の目を開き、神様に向けさせたのでした。
どのようなときにも、私たちの目を主に向け、主に私の心をとらえていただいてみこころを知り、
その真ん中を進ませていただきましょう。
「教会の実力」 (A・K)                   2010/11/14

          すべての祈りと願いを用いて、
          どんな時にも御霊によって祈りなさい。
          そのためには絶えず目をさましていて、
          すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、
          また祈りなさい。
                (エペソ6:18)

28日の『あわ聖会』にお迎えする横山文子先生は、
今春、引退牧師となられ、草加市のキングスガーデンに入居しておられます。
そのホームでは、毎日の小礼拝など、多くの恵みの集いが持たれているようです。
そのひとつである『ルデヤ祈り会』で、横山先生と十数人の姉妹方が、
定期的に祈りの時をもっておられます。
この祈り会のメンバーの方々が、この度、四国を巡回される先生の御奉仕と諸集会の祝福を祈るために、 日程を書き込み、色を塗り分けて、四国の地図を作って下さっているそうです。
このような祈りをもって、先生を私たちの教会に送り出してくださる聖徒方がおられることに大きな 励ましと感謝を覚えます。
私は12年間、横山先生のもとで、副牧師として奉仕させていただきましたが、
折にふれて『祈りは教会の実力!実質!』ということを、教えていただきました。
私たちも、主が備えて下さったこの恵みの教会のために、何にもまして祈りの準備を重ね、 祈りによって主の御業を体験する強い群れとならせていただきましょう。
「主ご自身を喜ぶ者」 (A・K)                   2010/10/31

          王さまが無事に王宮に帰られて後なら、
          彼が全部でも取ってよいのです
                (Uサムエル19:30)

この章には、心の在り方が映し出されるような、
様々な人々の姿が記されています。
反逆者である息子を失った悲しみのために、
王としてとるべき態度を誤ったダビデ。
有能で正しいが、王に対して辛辣な言葉を述べるヨアブ。
自分の有利と安全を図るシムイ。
・・彼らの中で、唯一、メフィボシュテの忠誠の姿に惹かれます。
彼は、王に対する感謝を忘れず、自分の立場などではなく、ただ、
王の存在と王の帰還を喜び、心から満足しています。
どのようなときでも、主ご自身を喜ぶ者でありたいです。
「すべてを治めておられる主の御旨」 (A・K)                2010/10/24

          すると王は・・泣きながら、こう言い続けた。
          「我が子アブシャロム。我が子よ。我が子アブシャロム。
           ああ、私がおまえに代わって死ねばよかたのに。
           アブシャロム。我が子よ。我が子よ。」
                (Uサムエル18:33)

この章には、反逆者アブシャロムに対して、
ダビデが父としての心を向け続けたことが記されています。
父に対して敵意と殺意のみをいだき迫っていた息子の最期を知ったときも、
ダビデは上記のように嘆いたと書かれています。
ダビデが「我が子よ」と繰り返しながら流したのは、
息子の死を悼む涙であり、また、我が子との隔たりが埋まることなく至ったこの結末に対しての、
悔いと痛みの涙であったと感じます。
このようにして、長期間にわたる自らの罪の刈り取りを終えたダビデの姿を見るとき、
すべてを治めておられる主の御旨だけが成るという厳粛な事実を知らされます。
主を畏れつつ進ませていただきましょう。
「主が決めておられたから」 (A・K)                2010/10/10

          これは主がアブシャロムに わざわいと もたらそうとして、
          主がアヒトフェルの すぐれた はかりごとを打ち壊そうと
          決めておられたからであった。
                (Uサムエル17:14)

アブシャロムはダビデを討つ完璧な計画を、
部下アヒトフェルから手に入れました。
しかし、フシェイに助言を求めた結果、この案は修正され、その作戦は崩壊しました。
それによって、ダビデのいのちは守られたのです。
上記のみことばは、これらのことが、主の導きによること、
主に信頼する者を、主が御手をもって守ろうと かたく決めておられることを示しています。
この時の、ダビデの神様への信頼が詩篇3篇にうたわれています。
しかし、主よ。あなたは私の周りを囲む盾、私の栄光。・・・
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。・・・
救いは主にあります。
「主のご支配と最善」 (A・K)                    2010/09/26

          ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。
              主が彼に命じられたのだから。
            たぶん、主は私の心をご覧になり、
            主は、きょうの彼の、のろいに代えて、
            私にしあわせを報いてくださるだろう。
                (Uサムエル16:11・12)

ダビデがバフリムまで来たとき、サウル家の一族シムイが、
ダビデに石を投げつけ、のろいの言葉を浴びせました。
アビシャイは怒り、シムイを打つことを求めましたが、
ダビデはそれを許さず、上記のような謙遜と寛容の態度を示しました。
常に主を見上げ、大いなる方がすべてを治めておられることをうなずき、
その御手に委ねきる冷静さと忍耐力が、ダビデの言葉に証されています。
どのような出来事の中にも、主のご支配と最善を信じる者であらせていただきましょう。
「忠誠の言葉」 (A・K)                       2010/09/12

王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、
              しもべも必ず、そこにいます。
                (Uサムエル15:21)

ダビデの息子アブシャロムは反逆の準備を進め、父である王に偽って ヘブロンへ行き、自分に与する民を増やしました。
人々の心が彼に靡いていることを知ったダビデは、エルサレムへ逃げました。
息子や議官アヒトフェルにも裏切られた王を護衛するため、外国人であるイタイが進み出ました。
ダビデは彼を道連れにすることは忍びないと考え、彼を去らせようとしましたが、イタイは上記のように王に誓いました。
私たちの王であるイエスさまに、このような忠誠のことばを、心から告白させていただきたいものです。
「和解の恵みを」 (A・K)                       2010/08/22

ヨアブは、王がアブシャロムに敵意を抱いているのに気づいた。
                (Uサムエル14:1)

罪によって傾いていく王家の様子が、この章にも表されています。
ダビデ王が息子アブシャロムに敵意を抱いていることを知ったヨアブは、テコアから知恵ある女を連れて来て、王に話をさせました。
王は、女がヨアブによって差し向けられたことを知り、その願いを聞き入れてアブシャロムが都に帰ることを許しました。
しかし、息子と顔を合わせようとはしませんでした。
真実な悔い改めのないアブシャロムに対して、ダビデは父親として行うべきことを果たしませんでした。
かつて、預言者ナタンによって罪を知らされたダビデは、悔い砕かれた心で御前に出る者を、主が退けなさらないことを経験によってよく知っていたはずです。
しかし、彼は息子の罪を指摘し、悔い改めに導くことができず、アブシャロムに、赦しという罪の解決、和解の道を伝えることができませんでした。
結果、親子の間にも、和解はありませんでした。
主に許された者として、人々を愛し、その恵みを伝える務めを果たす者とならせていただきましょう。
「ダビデはいつまでも悲しんでいた」 (A・K)                2010/08/15

ダビデ王は事の一部始終を聞いて激しく怒った。
ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しいんでいた。
                (Uサムエル13:21,37)

王国の繁栄は、崩れ始めました。それは、戦いに敗れたからではありません。罪に因ってです。
ダビデの長男アムノンが妹にあたるタマルを辱めるという罪を犯しました。
そしてタマルと同じ母を持つアブシャロムによって、アムノンは殺害されました。
ダビデは、アムノンのしたことに激怒し、アブシャロムの報復による息子の死を悲しみましたが、彼らを正しく罰することはできませんでした。
ダビデにとって、この事件は、自分自身が犯した罪の刈り取りでもあったのです。
父として、また王としての権威さえ失ってしまった彼が、「いつまでも・・・悲しんでいた」という記述が哀れです。
主がお嫌いになる罪を遠ざけ、主に従って聖く生きる道を進む者でありたいです。
「私は主に対して」 (A・K)                2010/08/08

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」
                (Uサムエル12:13)

預言者ナタンは、主に遣わされてダビデ王のところへ行き、たとえを用いて彼の罪を指摘して、主が語られた王家のわざわいについて告げました。
罪を指し示されたとき、ダビデは上記のように、それを即座に認めました。
詩篇51篇に記されているのは、彼の悔い改めの祈りです。
神様は悔いた心をもって御前に出る者を退けることをなさらず、赦しを与えて下さる御方です。
憐れみによって、ダビデは主と彼の関係を妨げていたものを取り除かれ、赦しの恵みを味わいました。
彼は罪の結果として懲らしめを受けなければなりませんでしたが、主はダビデに後継者ソロモンを与えて下さいました。
主が私たちの心に光をあてて、チェックをくださるとき、私の在り方が「主に対して」どうであるかを見つめ、素直な心で主の前に出る者でありたいです。
そして常に、主と私の間接に妨げなく、御旨に従わせていただきましょう。
「曇ってしまうことのないように」 (A・K)                2010/07/11

ダビデの行ったことは、主のみこころをそこなった。
                (Uサムエル11:27)

イスラエル軍が、ラバという町を攻撃し包囲していたとき、ダビデ王自身は戦いに出ず、エルサレムに残っていました。
彼は、ある夕暮れに屋上から目にした美しい女性バテ・シェバに心を惹かれます。
そして、彼女が忠臣ウリヤの妻であることを知ったにもかかわらず、彼女を召し入れてしまいます。
やがて、バテ・シェバが子を宿したことがわかると、ダビデはウリヤを激戦の真正面に送り出して戦死させようと謀ります。
この記事の中で、ダビデが忘れていたことをいくつか読み取ることができます。
かつて、自分を追い続けたサウル王の命さえ重んじた彼が、その心を失い、ここでは、忠実な部下を殺すことを命じています。
また、神様が全てをご存じであることを忘れ、恐ろしい方法によって、犯した罪を隠すことができたと思っています。
何よりも、上記の聖句のように、彼は、自らが行ったことが彼を愛し導いておられる方の、みこころをそこなうということに気付かなかったのです。
彼のように、罪の誘惑に負け、心の目が曇ってしまうことのないように祈りつつ、主の前に真実に歩みましょう。
「全力を尽くそう」 (A・K)                2010/06/27

強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。
主はみこころにかなうことをされる。
                (Uサムエル10:12)

新しくアモン人の王となったハヌンに、ダビデは真実を尽くそうと使者を送りました。
しかしハヌンは、使者を辱め、周辺諸国の軍隊を雇って敵対して来ました。
上記の聖句は、夥しい敵との戦いを前にした、イスラエルの将軍ヨアブの言葉です。
彼の力強い言葉の中に、主の働きのために自分たちが成すべきことの明確な理解と、主への信頼とあつい思い。
ベストを尽くすことの喜びが表されていると感じます。
主への愛に満たされ、信仰の戦いを全力で戦い、主にある勝利を望み喜び進む者でありたいです。
「行く先々で勝利を」 (A・K)                2010/06/20

このように主は、ダビデの行く先々で、
彼に勝利を与えられた。
                (Uサムエル8:14)

ダビデは長い間、脅威となっていたペリシテを打ち破り、次々と諸民族との戦いに勝利をおさめていきました。
ダビデはこれらに勝つことができたのは、6節、14節にあるように、神様が彼に勝利を与えられたからでした。
ダビデ自身もそのことを遜って自覚していました。
「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。」(詩篇60:12)と、 うたっているとおりです。
主に信頼し、御旨の道を歩む者の「行く先々」に、このような、み助けと、主による勝利が約束されていることを信じ、 この週も信仰の良き戦いを進みましょう。
「主の前に座して」 (A・K)                2010/06/13

神、主よ。私がいったい何者であり、
私の家が何であるからというので、
あなたはここまで、私を導いて下さったのですか。
                (Uサムエル7:18)

安住を得たダビデは、主のために神殿を建てることを志し、預言者ナタンに伝えます。
しかし神様はナタンを通してそれを禁じ、神殿建築を、彼の子ソロモンに託されました。
そのような、みこころを知ったダビデの祈りが、上記の18節以降に書かれています。
ダビデは主の仰せを反論せずに受け止めました。
彼は自分の考えを押し通すことをしないで、素直に、謙虚に、神様の前に座して、主の恵みとお約束を感謝し、祝福を願い求めたのです。
自分がどのような者であるかを知り、私に注がれた恵みを心いっぱい感謝しながら、主に信頼して、その仰せに柔らかな心をもってお従いしていきましょう。
「私は その主の前で」 (A・K)                2010/05/30

あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで
主の民イスラエルの君主に任ぜられた主の前なのだ。
私は その主の前で喜び踊るのだ。
                (Uサムエル6:21)

この章には、「主の前」という言葉が繰り返し使われています。
前王サウルは神の箱に対して無頓着でしたが、ダビデは、神の臨在象徴、神の祝福そのものである契約の箱が放置されていたことを 問題視して、これを王国の基に据えるために取り組みました。
そして、神の箱をペリシテから奪還し、ダビデの町に運び上ることができたとき、ダビデは裸で踊りました。
その姿を見た妻ミカルが、彼を蔑んで言った言葉に、ダビデは上記のように答えました。
常に、主との交わりを重要だと考えていたダビデは、熱い思いをもって神の箱を迎え、その喜びを「主の前」に表したのでした。
彼にとってこの踊りは、小さな取るに足らない者を選び出し、導いて下さった神様への心いっぱいの感謝の舞だったのでしょう。
常に、「主の前」に生きる者、恵みの大きさを味わい喜ぶ者でありたいです。
「聖霊が臨まれるとき」 (A・K)                2010/05/23

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、
あなたがたは力を受けます。
そして・・地の果てにまで、わたしの証人となります。
                (使徒1:8)

ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。
ご昇天前に、主がお約束して下さった聖霊が、祈り待ち望んでいた弟子たちの上に降られたことを記念する喜ばしい日です。
弟子たちは、聖霊によって力に満ちて大胆に語る者となり、その福音を受け入れて信仰者たちが生まれ、教会が誕生した日でもありあます。
上記のお約束どおり、彼らは、イエス・キリストの福音を「力」として、まず自分が経験し、 「地の果てにまで」主の証人とされました。私たちが罪からきよめられ、キリストご自身を力強く証しする者となる素晴らしいお約束が、 聖霊によって実現したのです。
この記念の朝、皆が、全的な献身と信仰によって、このような主の力を経験し、ペンテコステの喜びに溢れることができますように。
祝福をお祈りいたします。
「ダビデは知った」 (A・K)                2010/05/16

ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、
ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を
盛んにされたのを知った。
                (Uサムエル5:12)

「イスラエルの王として立て」られるこの時まで、ダビデは長い試練と 忍耐の年月を過ごしてきました。
少年の頃のサムエルによって油注ぎを受けてから、このことが実現するまでに、 神様は彼に長い苦難の道のりを辿らせなさいました。
彼がそこで、神様の深い御意図を知り、委ねて従う訓練を受け、み恵みを 体験したことが、上記の「知った」という聖句の中に、表されているように思います。
ようやく王位に着いたとき、彼はそれが、自分の知恵や能力によってではなく、神様の みこころによるということを、謙遜に頷きました。
主が彼の王国を盛んにされたのは、神様が宝の民として愛されたイスラエルを堅立するためで あったことを、ダビデは理解していたのです。
このとき、彼は主の導きの確かさをさらに実感し、より深く主と交わり、従いたいと決意したことでしょう。
私たちのためにも、主のご栄光が表される最善の道が備えられています。
主のお心を知り、導きの御手に身を委ねて歩む者とならせていただきましょう。
「母の日のはじまり」 (A・K)                2010/05/09

あなたの父と母を喜ばせ、あなたをうんだ母を楽しませよ。
                (箴言23:25)

アメリカのバージニア州のウェブスターという町の教会に、長年、子 どもの教育のために奉仕した先生がいました。
クララ・ジャービスというその婦人が、ある日曜の朝、 子どもたちに十戒の中の「あなたの父と母を敬いなさい」について語ったあとで、 「皆さんも、お母さんの大きな 愛に対して、心から感謝を表わす方法を考えてみてください」と言い ました。
この話を彼女の娘アンナが聞いていて、母の言葉を深く心に 留めていました。
その後ジャービスは亡くなり、追悼会が行われたとき、 アンナは母への感謝をこめて、たくさんのカーネーションで教会を飾り ました。
彼女の心づかいは、人々に深い感動を与え、やがてクリスチャ ンで、当時、百貨店王と言われていたジョン・ワナメーカーの耳に入り、 彼のデパートで「母の日」を記念する催しが始められました。
これが全米に広がり、1908年、当時の大統領によって、国の記念日として定め られ、日本でも、1923年から祝われるようになりました。
きょうも、神さまの恵みを感謝し、お母さんへの敬愛と 感謝を表わしましょう。
また、母である方は、神さまの 愛を信じ伝える母、祈りの母となられますように。
「王のしたことは民を満足させた」 (A・K)                2010/04/25

王のしたことはすべて、民を満足させた。・・・すなわち・・・
アブネルを殺したのは、王から出たことばではないことを知った。
                (Uサムエル3:36、37)

ダビデと契約を結んだ元サウルの将軍アブネルの暗殺を、ダビデの 部下ヨアブが企てます。
しかし、ダビデはそのことを知りませんでした。(26節)
ヨアブがアブネルを密かに呼び出して殺したことを聞いたダビデは、 「私にも私の王国にも、主の前に罪はない」と言い、アブネルの死を 悼み悲しみました。
そのようなダビデの姿を見て、人々がうなずき、 この件について、ダビデに非がなく、これが王から出たものでないと認 めるに至ったことが記されています。
常に主の前に、また人々の前に、 真実な心、正しい態度をもって尽くそうとするこの王にこそ、民の心が 引き寄せられていったことを感じます。
「ダビデは主に伺って」 (A・K)                2010/04/18

・・・すると主は彼に、「上って行け」と仰せられた。
・・・主は、「ヘブロンへ」と仰せられた。
                (Uサムエル2:1)

サウルの死後、自分はユダに上って行くべきかと尋ねたダビデに 神さまは上記のように答えられました。
サウルがいなくなり、まさにダビデの時代がやってきたというときでしたが、 彼は自分の考えで先走ることなく、神さまに、どのような踏み出しを すべきかをお開きしました。
彼の姿から、どんなときにも、主の前こ座して、その導きを仰ぐこ との大切さを学ぶことができます。
ダビデは、この「主に伺う」姿勢を、試練や孤独の中で 身につけたのではないでしょうか。
みこころを祈り求めるとき、主は明確な導きを与えてくださいます。
そして、そのお言葉に従うなら、私たちは確信と平安のうちに歩を 進めることができるのです。
主のお導きがなくては、進むことができ ない者であるこという白覚を持ち、謙遜な態度で、主のお言葉に耳を 候ける者でありたいです。
「サウルのために、この哀歌を」 (A・K)                2010/04/11

ダビデは、サウルのため・・・ヨナタンのために、この哀歌を作り・・・
                (Uサムエル1:17)

ダビデは、サウル王とヨナタンの死、さらにイスラエルの敗北の報告 を聞きました。 長い年月、サウルに追われ、身も心も休まる間のない 辛い生活を余儀なくされたダビデにとって、サウルの死の報は、その苦 しみの日々の終わりを告げるものでした。また同時に、ダビデは王位に 着く時を迎えたわけですが、彼は、安堵や喜びを表わしたのではなく、 哀しみの歌を歌いました。
その哀歌には、神さまに立てられたサウル王の尊厳、彼の業績への 賞賛、そして、ヨナタンへの友情と感謝の思いが悲しみとともに綴られ ています。ダビデが、親友ヨナタンを失ったことについてだけでなく、 自分のいのちを狙う敵であったサウル王の死を、これほどまでに悼み 悲しむことができたのはなぜでしょうか。
ダビデがサウルのために作った「この哀歌」を味わうとき、彼が主の 前に自分自身を明け渡し、主の愛に満たされていたことを感じます。
「あなたの王が あなたのところに」 (A・K)                2010/03/28

見よ。あなたの王が あなたのところに来られる。
柔和で、ろばの子に乗って・・・。
              (マタイ21:5)

都に入られたイエス様を、人々は大喜びで迎えました。
病気を治し、死人を生き返らせるほどの偉大な力を持つ御方なら、きっと強い王様になって、 自分たちをローマの支配から解放して下さると思ったからです。
しかし彼らは、わずか五日後には「イエスは私たちの王ではない!十字架につけろ!」と 叫んだのでした。
そして、彼らの要求どおりになりました。イエス様の頭上には、「これはユダヤの王」という 罪状書きが掲げられました。
十字架を取り囲んで、あざける人々には、イエス様が彼らを、悪魔の支配から解き放って下さる 「真の王」であることがわからなかったのです。
そのような彼らのために、そして、すべての人々のために、主は、「彼らをお赦しください・・」と 祈られました。
あなたは、この王を、あなたの心にお迎えしましたか。
受難週からイースターを記念するこの節季、「あなたの王があなたのところに来られる。」という 御言葉が、お一人一人のうちに確かにされる時となりますように。
「逸れることのないように」 (A・K)                2010/02/28

こうして、その日サウルと彼の三人の息子、道具持ち
それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。
              (Tサムエル31:6)

イスラエルの初代の王として神に選ばれたサウルは恵まれた環境、美しい容姿を与えられ、 謙虚さや忠実さを持った人物でした。
しかし、この章に記されている彼の最期はあまりにも哀れです。
彼の死は、前掲のみことばのように、家族や部下たちを巻き込み、イスラエルが 異教の民に敗北する要因にもなりました。
これについて、T歴代誌10:13には、「サウルは主に逆らった、 みずからの不信の罪のために死んだ」と記されています。
神様への信頼と服従が次第に崩れ、このような結末に至った彼の生涯 を見るとき、主に全面的に信頼し聞き従う信仰の道から、 逸れることのないようにと教えられます。
「彼の神、主によって」 (A・K)                2010/02/21

ダビデは非常に悲しんだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで
心を悩まし、ダビデを打ち殺そうと言い出したからである。
しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
              (Tサムエル30:6)

ダビデと仲間の者たちは、町も家族も失い、泣くカさえ尽きてしまい ました。
しかも、ダビデは皆と同じ悩みだけでなく、リーグーとしての 孤独、ついには命の危険へと追いやられていました。
そのようなダビデが「しかレ‥奮い立った。」と記されています。
このみことばの「彼の神、主によって」という言葉のうちに、ダビデが知って いた幸いが見出されます。
ダビデのように、すべての助けが断たれてしまったときにも、恵みに よって支えてくださる神様を、「私の神」として知っている者は幸いです。
自分の限界や弱さ、神様の強さを知って、自らの力によるのではなく、 御力におすがりする者を、主は立たせてくださるからです。
「砕かれた悔いた心で」 (A・K)                2010/02/14

サウルは主に伺ったが、・・答えてくださらなかった。
              (Tサムエル28:6)

サウルはペリシテの大軍を見て、非常に不安になり、助けを求めて祈りましたが、
神様はお答えになりませんでした。
この時サウルが、まずしなければならなかったのは、御声に聞き従わなかった罪(18節)を
悔いて、主の御手に陥ることでした。
しかし彼は自覚している罪を放置し、こともあろうに霊媒女を頼っていきました。
当然、彼がそこで得たものは、更に増してゆく恐怖でした。
主の語りかけに耳をかさず、度々の悔い改めのチャンスに応じなかった者が、
内外からの恐怖にさいなまれ乱れていく様が、この章に哀しく記されています。
砕かれた悔いた心で近づく者を、決して拒まれることのない、
愛と憐れみに満ちた御方がおられることをおぼえましょう。
そして、いつまでも御声を聞き分け従いつつ、自由と平安の道を辿る者でありたいです。
「ほかに道はない」 (A・K)                2010/01/31

ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって
滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。・・』

サウルに追われながら生活していたダビデは、将来に大きな不安を覚え、
上記のような決断をしました。
これまで苦境の中を何度も、信仰によって誘惑に打ち勝ってきたダビデでしたが、
この箇所では神様を見失ったような状態に陥っています。
ダビデは、サウルによって滅ぼされるという恐れに心を占められてしまい、
「ほかに道はない」と、ペリシテ人の島に逃げました。
彼は主に祈ることもなく、自分勝手な判断や理解によって動き始めてしまったのです。
ダビデは、神様だけに信頼し従おうと努めることを忘れ、
敵国の王アキシュの許に身を寄せて、彼の信用を得るために力を尽くします。
一時的には恐れから逃れたように感じたとしても、ダビデの心に平安は戻らず、
内なる葛藤を味わい続けたことと思います。
どのようなときにも主を見上げ、主に信頼して従う道以外に、私たちの進むべき道は
ないことを忘れない者でありたいです。
「生きておられる主の前に」 (A・K)                2010/01/24

主は生きておられる。
・・・私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、
主の前に絶対にできないことだ。
(Tサムエル26:10・11)

ハキラの丘に隠れているダビデを追って、サウルは荒野に下って来ました。
それを知らたダビデが、サウルが陣をしいている場所に出て行ったとき、 サウルは地に槍を立てて寝ていました。
この状況を見て、ダビデと共にいたアビシャイは、サウルを打つ絶好の機会だと考えましたが、 ダビデは上記のように語り、サウルに手を下すことを許しませんでした。
『主は生きておられる。』というダビデの言葉に、常こ主に対する敬虔さを 貫く信仰者の姿を見ることができます。
彼は、主による油注ぎの重大さを知って、それを軽んじる罪から飛び退くことを選びとりました。
すべてが主の御手の中にあると頷き、委ねることを選択したのでした。
「生きておられる」「主の前に」歩む者として、みここを悟り、より頼む者 に最善をもってお応えくださる方に従う道を進ませていただきましょう。
「神様のストップサイン」 (A・K)                2010/01/17

きょう、あなたを私に会わせるために送って下さった
イスラエルの神、主がほめたたえられますように。
このしもべが悪を行うのを引き止めて下さった
主が、ほめたたえられますように。(Tサムエル25:32・39)

ダビデがナバルのもとに十人の若者を遣わし、彼らに物を与えて欲しいと 願いましたが、ナバルは拒絶しました。
ダビデはナバルの侮辱に憤り、彼に報復しようとしましたが、ナバルの妻アピガイルが、逸早く贈り物を 用意し、主人の無礼を詫びて、ダビデの怒りを解きました。
ダビデは怒りに 任せてナバルに手を下そうとした自分をとどめるために、神様がアビガイ ルと出会わせてくださったのだと感謝し、「主がほめたたえられますように」 と言いました。
また、その後ナバルが主に打たれて死んだことを知ったとき にも、「引き止めてくださった主が、はめたたえられますように」と罪から 守ってくださった方に感謝しました。
私たちの日々の生活においても、同様 に神様がストップサインを下さることがあります。
気静かな御声を敏感に聞き 取り、感謝をもってお従いする者でありたいです。
「主を畏れる者の選択」 (A・K)                2010/01/10

私が主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に・・・
手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。
彼は主に油そそがれた方だから。(Tサムエル24:6)

ダビデがエン・ゲディにいることを知って追いかけて来たサウルが、道端の ほら穴に立ち寄ったとき、ダビデと部下はその奥に座っていました。ダビデ にとって、それは、サウルを容易く倒せるという予想外の状況であり、信仰 を試されるときとなりました。今こそサウルを打つ時だと部下に勧められる ままに、ダビデはサウルの上着のすそを切りました。
しかし、そのことを後悔し、サウルに手を下さないという決断とともに、 部下に語ったのが上記の聖句です。
自分が置かれた状況が、神が下さった絶好の機会だと主張するこ とも、祈りの応えだと思い込むこともできたでしょう。
しかしダビデは、現状ではなく神様ご自身を見上げ、主に油注がれた方に手を下すことは、主に逆 らうことであると考えました。
すべてを裁かれる方を畏れ、委ね従う事を選び取ったのでした。
私たちも、日々のあらゆる場面で、ダビデのように主を 畏れる者の選択をさせていただきたいものです。
「クリスマス」 (A・K)                2009/12/20

布にくるまって飼葉おけに寝ておられる みどりご…
これが、あなたがたのためのしるしです(ルカ2:11:12)

クリスマスおめでとうございます。
今から9年前のクリスマスの日、私は病院のベッドの上にいま した。
一人ばっちのクリスマス‥・夜が更けていくにつれて、とても 寂しい気持ちになりました。
そんなとき、「♪まぶねの中に 産声 あげ‥・貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」
という讃美歌が心に響いてきました。「赤ちゃんとなって飼葉おけ に寝ておられる…人の悲しみや悩みをすべて体験された…十字架 で死なれた イエスさまを見なさい」という歌詞の意味を 静かこ 味わうと、心が慰められあたたかくなりました。
皆さんはこ存知でしょうか?イエスさまがお生まれになった 時代の飼葉おけは、四角い石をくりぬいたものだったそうです。
冷たい石のベッドに、イエスさまは寝ておられたのです。
聖書には、それが「あなたがたのためのしるしです」と書かれています。
この「しるし」はイエスさまが、私たちのために辿ってくださった愛の ご生涯の始まりと、その日々を示しています。
飼葉おけは、神である方が人となってこの世に来てくださったことの「しるし」
イエスさまが私のすべてを知ってくださり、何よりもつらい罪の 苦しみを私の代わりに受け、私を赦すためにいのちさえ差し出し てくださった救い主であることの「しるし」なのです。
今年のクリスマス、飼葉おけのイエスさまを、そして、そこに あらわされた神さまの愛のしるしを見つめ、喜ぶときとなります ように。祝福をお祈りいたします。
「御名による力づけ」 (A・K)                2009/12/13

『サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て
 神の御名によって、ダビデを力づけた。
       (Tサムエル23:16)
21から23章には、度々ダビデの手恐れ」が記されています。
孤独と恐れの中で流浪の旅を続けるダビデを訪問し、
力づけたのは、彼の友ヨナタンでした。
ヨナタンはダビデにとって激励が、一番必要と思われる
タイミングで現われ、彼に言葉をかけました。
それは、自分の存在や優しさなどを強調する慰めや
励ましではなく、相手が神様のうちに力を見出すことが
できるような激励でした。
試練の中で、神様に目を上げさせ、主ご自身に
カを見出すことができるよう力づけてくれる友を
持ったダビデは幸いでした。
私たちも、互いに、そのような存在となることが
できる者でありたいです。
友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17)
「私たちは一つ」 (A・K)                2009/11/29

『私たちふたりは、「主が、私とあなた、また私の子孫と
 あなたの子孫との間の証人です。」と言って、
 主の御名によって誓ったのです。』
       (Tサムエル20:42)
19・20章には、ヨナタンとダビデの契約と友情の姿が記されてい ます。
ダビデの名声をねたんだサウル王は、ダビデに殺意を抱くようになり ました。
そのことを父から打ち明けられても、王子ヨナタンのダビデに 対する友情は変わらず、彼はそれまで以上にダビデを思いやり、父の 怒りから友の身を守ろうと努めました。
友である二人だけが解る方法で、ヨナタンか野原に矢を放ち、ダビデ にメッセージを伝えた、20章の記事は感動的です。
サウルは、主がダビデと共におられることを見て、彼を恐れましたが、 ヨナタンは、ダビデが証ししている主の御臨在の故こ、彼を愛したので しょう。
常に、神様がおられることを意識した彼らの友情は、周りの変 化や苦境によって消されるようなものではありませんでした。
私たちも、主にあって繋がれ一つとなり、互いに愛し励まし合う信仰 の友を持ち、その交わりの中で成長させていただきましょう。
「勝利の記録」 (A・K)                2009/11/15

『ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主がともにおられた。』
                  (Tサムエル18:14)
サウル王は、ゴリヤテとの戦いに勝利したダビデを召しかかえました。
また、サウルの子ヨナタンはダビデを愛し、彼と契約を結びました。ダビデ は、どこでも、遣わされる所へ出かけて行き、さらに勝利を収めてゆきます。
そのようなダビデを、サウルは恐れるようになり、彼の命を奪おうと謀りま すが、王の策略はかえって、ダビデを栄えさせることとなります。
このような記事の中に、ダビデの「勝利の記録」が綴られているわけですが、 それを飾るように、「主はダビデとともにおられ」(12節)、「主が彼とともにお られた」(14節)、「主がダビデとともにおられ」(28節)と、主の御同行の事実が 記されていることに気づかされます。神様は、常にダビデと共におられ、彼 を強め、勝利を与えられました。
心から主に信頼し従うとき、同じ主が、私たちをも支え導き、勝利者としてくださるのです。
「主は救い出してくださる」 (A・K)                2009/11/08

ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、
あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」
            (Tサムエル17:37)
ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集しました。
サウルとイスラエル人も集まって、彼らを迎え撃つための備えをしました。
しかしゴリヤテという巨大な敵の出現に意気消沈してしまい、その 挑戦を受けて立つ者はひとりもいませんでした。
折しも、戦場の兄たちを訪ねたダビデは、ゴリヤテが発する神を汚す言葉を聞いて、彼に挑む 決意をしました。
それは無謀な行動のようにさえ見えました。ダビデにとって、よろい もかぶとも剣さえも、身に合わないものでしたが、彼が身につけその 手に握ったのは、使い慣れた石投げと、「万軍の主の励名」そして、「主 は、私を救い出してくださる」という、彼が体験的にに知っていた神様への 信頼でした。
神様がおられ、その方に守られているという平安、「この 戦いは主の戦いだ」(47節)という明確な理解と納得…。
ダビデの手には、目こ見えない強靱な武器と勝利への確信が、握られていたことがわかり ます。
日々の神様との交わりの中で、さらに主を知らせていただき、主の ご臨在とみことばに立って、戦い進む者でありたいです。
「主は心を見る」 (A・K)                2009/10/25

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
            (Tサムエル16:7)
サウルのことで悲しんでいるサムエルに、「エッサイのところに行って わたしが言う人に油を注げ」との、主からの言葉がありました。
サムエルは主に告げられたとおりべツレヘムへ行き、新しい王としてダビデに油を注ぎま した。
このとき、ダビデを選ばれた神様の基準は、彼の心の在り方でした。
私たちは、人や自分を「うわべ」で判断しやすい者です。
けれども神様は、常に私たちの「内側」を見つめておられるのです。
不本意な失敗を経験したり、周りから誤解を受けて悲しさを覚えるようなとき、 神様が私たちの動機や思いを知っていてくださることは、大きな慰めとなります。
また、成功を果たして賞賛を受けるようなときにも、私たちの本当の姿をご存知の主がおられ ると知っているなら、高ぶりから守られることができるでしょう。
神様は、この油注ぎの後も、すぐにはダビデを王座に就かせず、王の道具 持ちとして用いられました。
サウルに仕える日々の中で、ダビデにいくつも の試練や孤独を体験させ、謙遜と主への信頼を学ばせられたことは、まさに、 「心」を見られる神様からの訓練にはかならないと感じます。
私たちの「うわペ」ではなく、「心」を見ていてくださる方の前に、へりくだって歩みましょう。
その中でしか知ることのできない恵みを、主は備えていてくださいます
「聞き従うこと」 (A・K)                2009/10/18

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
            (Tサムエル15:22)
神様は憐れみによって、サウルに回復のチャンスを与えるために、再度、 彼に信仰のテストをされました。
「すべてのものを聖絶(一般的な用途に用いることをせず、神様のために 聖別)せよ」という告示を受けて、アマレクとの戦いに勝利をおさめたサウル でしたが、良いものを惜しみ、つまらない物、値打ちがないと思われる物だ けを聖絶しました。
このように、サウルの服従は全面的なものではありませんでしたが、それ でも彼は、「私は主のことばを守りました」(13節)、「主が私に授けられた使 命の道を進めました」(20節)と自分を正当化したのでした。
結果、彼のこの不信の罪は、イスラエルに大きな災いをもたらす原因となり、何よりも、神 様のお心を悲しませるものとなりました。
冒頭のみことばにあるように、私たちが「聞き従う。こと」を、最良のささげ ものとしてお受けくださる方の語りかけに、きょうも耳を澄ましてみこころ を知らせていただきましよう。
そして、私自身を主の前におささげして、全 面的な服従の態度をとり続ける者でありたいです。
「神が共におられたので」 (A・K)                2009/10/11

「神が共におられたので、あの方は
きょう、これをなさったのです。」
こうして民はナタンを救った・・」
            (Tサムエル14:45)
サウル王の息子ヨナタンは、道具持ちの若者とともに、ペリシテを襲撃し 約20人の敵を倒しました。
その知らせが王に届いて、イスラエル軍は総攻 撃の態勢に入りました。
この時サウル王は、戦いが終わるまで、兵士たちの 飲食を禁じましたが、王子ヨナタンーまその経緯を知らなかったために蜜を口 にしてしまいます。
そのことを知ったサウル王は激怒し、王子を厳しく罰す るように命じました。
そこで、王子ヨナタンの命を救って欲しいと、民が王 に願った言葉の一部が上記の聖句です。
この言葉には、知略に優れたヨナタンヘの感謝や敬意、彼への適切な評価が 表わされていると思います。
人々は、ヨナタンが密かに最前線に出て行ったことが、無謀な恐れ知らずの行動では なく、神様への信頼によるものであったことを理解していたのでしょう。
事実「主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」(6節)という彼自身 の言葉からも、その信仰の姿勢を知ることができます。
私たちが「きょう」行うすべてにも、「主が共におられたので」という理 由と評価が伴うような、信仰による歩みをさせていただきたいものです。
「愚かなこと」 (A・K)                2009/09/27

サムエルはサウルに言った。
「あなたは愚かなことをしたものだ。
あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・」
            (Tサムエル13:13)
この13章でイスラエル人が対峙しているペリシテ軍は、「戦車三万、騎兵 六千、それに海辺の砂のように多い民」でした。(5節)
一方、それと向かい合っているサウル王の軍隊は わずか三千人で、しかも日ごとに恐れをなし て去っていくというありさまでした。
これ以上 少人数になることを恐れた サウル王は、サムエルとの約束を破って供え物を献げる行為をしてしまいま した。
そのことに関するサムエルの叱責に対して、サウルはその理由を叫ん でいます言11,12節)彼が置かれていた状況は、先述のように同情し たくなるようなものではありましたが、彼がとった行動は、王として致命的 な失敗でした。サウルの失敗の原因は、彼が神様以外のもの…現状を回復さ せようとする思いや、自分の考え・羊張を、神様の命令よりも優先したこと にあります。サウル王が、この「愚かなこと」を選び取った結果、恵みを失い、 捨てられてしまった記事は、私たちに警戒を与えています。
どんなときにも、私たちがご自身に望みを置き、その御言葉に誠実に従う 「ことを求めておられる主に、心を向けて歩みましょう。
「よい正しい道を」 (A・K)                2009/09/20

私はあなたがたに正しい道を教えよう。
ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。
主がどれほど偉大なことを
あなたがたにしてくださったかを見分けなさい。
                 (Tサムエル12;23,24)
イスラエルの民が、自分たちを治める王が欲しいと要求したことは、神様 への不信のあらわれでした。預言者サムエルはその罪を指摘しながらも、主 がご自身の御名の故に、民をお捨てにならないことを告げ(22節)、上記の 言葉を語りました。これは、神政政治から王政政治への変化によって、その 舞台から去ることになった彼が、これまで幾度も主を忘れ、主に背いてきた 民に残さなければならない警告でした。
私たちは、主によって救われ、その恵みによって生かされている者であり ながら、ある時には、戦いの激しさ・問題の大きさに押しつぶされそうに なって主を忘れ、またある時には順境の中で、その恵みを忘れてしまい易い 弱い者です。しかし、そのような者にこそ「教えよう」と示されているこの「道」 に目を留めましょう。どんな時にも、これまで主が私にとってどのような御方 であってくださったか、その恵みがどれほどであったかを思い起こし、心を 尽くして主に仕える者でありたいです。その「よい正しい道」を歩む中で、主 はさらに溢れる恵みを体験させてくださるでしょう。
「主が救ってくださったのだから」 (A・K)                2009/09/13

しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。
きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」
                 (Tサムエル11;13)
イスラエルの初めての王として選ばれたサウルは、特別な相応しさがある とは思われない人物でした。油注ぎの後、すぐに行政的な働きを始めたわけ でもなく、周りには、彼を蔑む者たちの存在さえありました。
そのようなサウルに、王としての自覚をもたらすため、神様はアモン人の侵略という 試練を備えられました。アモン人のことを聞いたサウルに聖霊が下り、彼は リーダーシップを発揮し、力強く人々の心をまとめて敵に勝ちました。
この勝利によって人々はサウルを王と認め、彼らは、当初の反対者たちを罰する ために引き渡すよう、預言者に願いました。
その要求を聞いて、サウルは上記のように語ったのです。彼は、勝利を彼め功績と捉える民を退けて、 この勝利が主によるものであることを認め、また反対者に対しても、寛容を 示しています。
ここに、彼のうちにある主への畏れ、絶対的主権への信頼と謙遜を見ることができます。
私にかかわるすべてのことの中に、主のご支配を知らせていただき、その みこころに従う者でありたいです。
「しるしが起こったら」 (A・K)                2009/08/30

このしるしがあなたに起こったら、・・・何でもしなさい。 神があなたとともにおられるからです。・・・神はサウルの心を 変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、 その日に起こった。(Tサムエル10:7,9)
サムエルはサウルに油を注いで、イスラエルの王になることを告げ、 ました。(1節)前章からもわかるように、サウルには自分が選ばれ て当然だというような思いは無かったでしょう。
そのようなサウルに、この油注ぎが主からのものであることを納得 させるために、サムエルはしるしについて語りました。
サウルがそのしるしを体験したとき、彼は、神様がお決めになった ことに従わなければならないと悟り、納得を与えられたことでしょう。
私たちの立場はそれぞれに違いますが、神様は私たちひとりひとり にも、使命を託しておられます。そして、その最善の道を歩むことが できるように、御臨在と御力を知らせ、励まし導いてくださいます。
弱く小さい私たちが、ただ主に依りすがって一歩を踏み出すとき、 主は私たちを用い、その務めを果たさせてくださるのです。
「私は最も小さい」 (A・K)                2009/08/23

私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。(Tサムエル9:6)
この章からイスラエルの最初の王、サウルの物語が始まります。
ある日、父のロバを捜すために出かけたサウルは、神の人サムエル と会いました。それはその前日、主がサムエルに告げられた通りの 出会いでした。サムエルはサウルを食事の席に招き、「イスラエルの すべてが望んでいるものは・・・あなたのもの」と告げたので、サウルは 驚きをもって上記の言葉を返しました。
この聖句だけではなく、この章のサウルの言動には、彼の謙遜と、 そのことによる従順の姿を読み取ることができます。
私たちも、主の前に、「最も小さい」者であることを自覚し遜り、 与えられたことに素直に従って進む者でありたいです。そして、その 中でさらに開かれてゆく恵みの道、主のご計画の実現を体験する者と ならせていただきたいものです。
神は、さらに豊かな恵みを与えて下さいます。・・・『神は、高ぶる者を 退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』(ヤコブ4:6)
「ここまで主が」 (A・K)                2009/08/16

ここまで主が私たちを助けてくださった。(Tサムエル7:12)
ペリシテ人の脅威と略奪に嘆き、イスラエルは主を慕いもとめて いました。苦境の原因が自分たちの罪であることに気づき、悔い改め を迫られた彼らは、サムエルの指導によって、神様との隔たりとなっ ていた偶像を取り除きました。
そして、主の前に集まり、いけにえをささげて主にすがりました。
その最中、またもやペリシテの攻撃に見舞われましたが、主による 勝利を与えられ、彼らは上記聖句の告白に至ったのです。生活の中に 偶像礼拝を取り入れていくことに違和感さえ覚えず、長い間にはそれ をすっかり浸透させてしまっていたイスラエルの罪深さと、そのよう な彼らであっても、拒むことなくその叫びに応えられた、主の憐れみ の深さを感じます。
ただ恵みにより、主に赦され助け出された者であることを覚え、感 謝して進みましょう。
「だれが主の前に」 (A・K)                2009/08/09

だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。(Tサムエル6:20)
ペリシテ人は、イスラエルから戦利品として奪った契約の箱(4: 11)のために、「神の手」によるわざわいを受けました。(5章)
次々と恐ろしい災害に悩まされ、いよいよ神の箱の処置に困った彼 らは、それを返す方法を模索し試みたあげく、国境近くのべテ・シェ メシュに安置しました。ベテ・シェメシュの人々は神の箱を喜び迎え ましたが、その不敬虔な行為のために五万七十人が打たれ、民は狼狽 して、上記の言葉を叫んだのでした。
神様は、罪を自覚せず認めないままや神の箱を迎えようとした彼ら に、厳粛なさばきをくだされました。罪に汚れ、神さまに近づく事 ことのできなかった者をイエス・キリストの十字架による贖い、義 と認めてくださった恵みを思い感謝が溢れます。
『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、 あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、 聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』
(コロサイ書1:22)
「ただ主だけを」 (A・K)                2009/07/26

主の契約の箱を、われわれのところに持って来よう。そうすれば、
それが、われわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。
            (Tサムエル4:3)
これは、敵(ペリシテ)に打ち負かされて戻ってきた民を迎えて、
イスラエルの長老たちが口にした次なる戦略です。
「そうすれば、それが、われわれの真ん中に来て」という表現は、
一見、主による勝利を先取りした借仰の言葉にもみえますが、
決してそうではありません。これは、主ご自身を見上げる事なく、
ただ形式的に神の箱を近くに置きさえすれば、ご臨在を感じること
ができるだろうと考える、彼らの不遜を露呈している言葉ではない
でしょうか。また、「われわれ」と繰り返す彼らは、自己中心的で、
敗因を省みて主の前に出るという謙虚さにも欠けているように思わ
れます。戦術だけでなく、主をおそれるという点でも、「神が陣営
に来た」(7節)と言ったペリシテのほうが、彼らより勝っていたの
かもしれません。
神さまは、このようなイスラエルを再び打たれ(10節)、ご臨在
の象徴として彼らがすがっていた神の箱さえ、敵に奪い去られて
しまいました。
大いなる主ご自身をあがめる礼拝者、ただ主だけを畏れ、ご臨在
のうちに歩む信仰者とならせていただきましょう。
「黙して聞く場所」(A・K)                2009/07/19

主が……「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、
「お話し下さい。しもべは聞いております。」と申し上げた。
            (Tサムエル3:10)
サムエルは、毎日 主の宮で祭司エリの声を聞き、その言葉に従う
ことを教えられていたのでしょう。ある夜、神さまから呼ばれたとき
も、エリの声だと思い、そのたびに彼のもとへ走って行きました。
そして、主が彼を「呼んでおられるということを悟った」(8節)エリ
に教えられ、主からの呼びかけに応えました.
主は何をおっしゃるだろうと、耳を澄ましているサムエルには、
そのお言葉に従う心構えがあったと思います.
祈りの座は、私たちが感謝や賛美、あるいは問題課題、心に抱く
思いを持って行き、それらを主に告げるところです。しかし同時に、
主からの語りかけをいただくために、黙して聞く場所でもあります。
きょうも そこへ行き、「お話しください」と 主に申し上げ、服従
の備えをもって 静かな御声を待ち望みましょう。
「主に仕えていくと」(A・K)                2009/07/12

一方、少年サムエルは ますます成長し、主にも人にも愛された
                           (Tサムエル2:26)
ハンナは、「主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくだ
さいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。」
(1:27,28)と言って、サムエルをエリのところへ連れて行き
ました。幼いサムエルは、「一生涯、主に渡されたもの」(1:28)と
して、主の宮での生活を始めました。
この章には、エリの息子たちの邪悪な行状と対比させるかのよう
に、サムエルの成長ぶりが記されています。
サムエルは「主に仕え」(18節)、「主のみもとで」(21節)、「主に
も、人にも愛され」(26節)て成長していきました.
みそばに身を置き続ける者を、主は御訓練くださり、その愛の中
で養い育ててくださいます。きょうも純粋な心をもって主に近づき、
お仕えする者とならせていただきましょう。