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霊一滴
09'06.28 (日)
☆「晴れやかな顔で」 (A・K)
『彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。』
            (Tサムエル1:18)
エルカナには二ハンナとペニンナという二人の妻がいました。 ペこニンナは子どもを産みましたが、ハンナは不妊でした。ユダ ヤ人にとって、そのような女性は、神からの祝福が注がれてい ない人とみられていました。そのようなハンナをさらに追い詰 めるように、ベニンナは彼女を憎み、いらだたせます。また、 ハンナの悲しみは、彼女を愛してそれを共有しようとする夫に も正しく理解されていなかったようです。
ハンナはその痛む心を主の前に持ち出しました。涙とともに 注ぎ出した彼女の祈りと声にならない叫びは、強く激しくなり ましたが、やがて終わり、そして彼女の表情は変えられました。 祈りの途中に事態が好転したわけではなかったはずです。し かし、彼女の顔が以前のようでなくなったのは、ハンナが主の 力を信じて、祈りの応えを先取りしたからでしょう。そして同 時に、それを得る備えが彼女の内に整えられたことによると思 われます。
ハンナのように、回復や解決の糸口すらつかめないところに 身を置きながらも、主の前に心を注ぎ出し、主のご干渉を信じ て委ねるなら、.私たちも晴れやかな顔で祈りの座を立ち上がる ことができるのです。きょうも主に心を向けて祈りましょう。 ありのままを主に告げ、主と語る中で、主は私たちの心に小さ な火をともして、平安と確信を与えてくださるでしょう。
09'06.21 (日)
☆「主はその人を抱いて‥・」 (A・K)
イエスは その人を抱いて いやし、帰された。(ルカ14:4)
これは、ある安息日の食事の席で、イエスさまがなさった事 を記したみことばです。そのような時には、パンやオリーブ、 いなご、フルーツやミルク、蜜の入ったぶどう酒などが並べら れたようです。しかし、人々はご馳走には目もくれず、張り詰 めた空気の中で、じっとイエスさまを見つめていました。彼ら は、主が安息日の規律を犯して、癒しの業を行われることを想 定し、主への憤りや憎しみを内に隠しながらそこにいたのです。
そして、もう一人、黙って座っている者がいました。彼は病 人でした。当時、彼の病は「いまわしい罪の結果」とみなされ、 彼のような病人は身も心も汚れた者とされていました。 そのような彼を、イエスさまは「抱いて」癒されました。主 は、そのお言葉だけで人々を生かし、病気を治すことのできる お方です。主の衣のふさに触れただけで、癒された女もいま した。けれども、この日イエスさまは、あえて「その人を抱い て」癒されたのです。人々の冷ややかな視線に耐えながら、主 の「真正面」(2節)に座している彼の悲しみ・‥、癒されたいという 喘ぐような願い…その声にならない叫びに、主は耳を傾けてく ださいました。また、ご自身を取り巻く人々の思いも、すべて ご存知の上で、彼を抱きしめられたのです。彼には、そうして もらう必要があることを、主は誰よりも良く知っておられたの でしょう。私たちの本当の必要を知り、愛の劫手で包み、満た してくださる救い主は、今もここにおられます。
09'06.14 (日)
☆「あなたのために祈りました」(A・K)
『しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。 だから、あなたは立ち直ったから、兄弟たちを力づけてやりなさい。』(ルカ22:32)
この聖句は、十字架の前夜、イエスさまがペテロの失敗を予 告して、彼に言われたお言葉です。ペテロの信仰がなくならな いように、それから、立ち直ったとき、人をカづけられるよう に…と。
イエスさまは、何よりもまず、私たちが信仰に堅く立つこと を、そして立ち直ったら、周りの人を「力づけ」る者となるこ とを望んでいてくださるお方です。
主は、私たちをご覧になり、私たちの弱さをすべてご存知で も、決して手放したり見捨てたりなさらず、その深い愛と憐れ みによって追い続け、ひとりひとりを大きな期待をもって見つ めていてくださることが、このお言葉に表わされています。
たとえ、どんな状況にあっても、どのような私であったとし ても、このイエスさまの祈りが私のためであると知ったなら、 今すぐこのお方に向き直りましょう。
ペテロがそうであったように、今の私には想像すらできなく ても、「あなたは、立ち直ったら…」と言ってくださるイエス さまは、やがて私がどなたかを力づける姿を見通し、そのこと を約束していてくださるのですから。
09'06.07 (日)
☆「イエスさまの出番」(A・K)
しかし主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。 」と言われるからです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、 むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Uコリント12章9節)
先々週、少し体調を崩しました。病院で点滴をしてもらっ ていると、私の心に上記のみことばが響いてきました。とい うより、そういう時にはいつも、このみことばを大切に取り 出して味わい、心の中で繰り返す‥・と言ったほうが良いかも しれません。
私は伝道者となって3年目に病を得ました。以来、多くの 人たちの祈りに支えられて奉仕を続けることが許されてきま したが、何年か前に医師から、将来を見通して厳しい現実を 告げられことがあります。その瞬間、悲しみと恐れに心が占 められそうになった私に、神さまは「しかし、わたしの恵み は、あなたに十分である」と語ってくださいました。その時 の私自身は、希望や勇気につながるものを何一つ持ち合わせ ていませんでしたが、みことばの力が波紋のように心に広が って、「だからこそ、これからがイエスさまの出番です!」 と言い、立ち上がることができました。
きょうも、このみことばを口ずさむ私は、心弱く脆い者で すが、「私が弱いときにこそ、私は強い」(10節)と言わせて くださる主の恵みを感謝して進んでいきたいと願っています。
09'05.31 (日)
☆「ペンテコステの日に」(A・K)
『父は、もうひとりの助け主を、あなたがたにお与えになります。 その助け主が、いつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 その方は、真理の御霊です。』(ヨハネ14:16・17)
小さい頃、あるペンテコステの日、母に「せいれいさまって、 どんなかた?」と聞いたことがあります。もし、私が今、同じ 質問を幼児から受けたとしたら、何と答えようかと少しは迷 うだろうと思うのですが、そのとき母は即座に、「お電話みた いな神さまよ!」と言いました。そして、私たちはいつでも父 なる神さまとお話ができ、主のお言葉を、私の口で繰り返し て、「あなたはこうおっしゃいましたから…」と申し上げるこ とができると説明しました。それから、電話の受話器を手に 取り、いつでも発信すれば、話したい相手につながるように、 聖霊さまによって、私たちは神さまとお話ができること、ま た、このお方が、私たちに神さまのみ声をわからせ、それに 従います、という応答ができるようにしてくださるのだと教 えてくれました。
「電話みたいな神さま」…これは、聖霊さまについての、 ごく一部の幼稚な説明であったかもしれませんが、私は毎年、 ペンテコステの日に思い出して心があたためられます。
聖霊さまは、私たちとともにいてくださり、傍らで私たち を助け、父なる神、御子、また、聖霊ご自身のみ思いへと私 たちをつなげ、向かわせ、従わせてくださる助け主です。
09'05.24 (日)
☆ 「イエスさまの十字架」B(A・K)
『イエス・キリストすなわち 十字架につけられた方のほかは、 何も知らないことに決心したからです。』
(Tコリント2章2節)
ずっと以前、クリスチャンの方の指導で、手話を習ってい たことがあります。私は、ほんの少ししかできませんが、手 話で話すと、声に出して表現するときよりも、ひとつひとつ の言葉の意味を、より深く味わえて、素晴らしいと感じるこ とがよくありました。初めて「イエスさま」という手話を覚 えた時は、特にそう思いました。「イエスさま」を表わすた めに、「その手に釘を打たれた主」という形に手振りをする からです。
片方の掌を、もう一方の手の中指で押す動作を左右交互 にしながら、「イ・エ・ス…」と心の中で言うたびに、私は 上掲のみことばを思い出します。そして、これを書いたパウ ロの、「十字架につけられた主に、私の心と言葉を集中し、 その恵みを人々に伝えたいのです!」という主張に、「アー メン(本当にそうです)と頷き、心があつくなります。
讃美をするとき、聖書を読むとき、祈るとき、どなたかに 福音を伝えるとき、そのたびに、主が私のために「十字架に つけられた方」であることを意識し、「イエスさまの十字架」 のご愛を、きのうよりきょう、さらに深くリアルに知らせて いただきたいものです。
09'05.17 (日)
☆ 「イエスさまの十字架」A(A・K)
『罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちのキリスト・イエスにある 永遠のいのちです。』(ローマ書6章23節)
みことばの中に二組の対照的な言葉を見つけることができ ます。「死」と「いのち」、もう一組は「報酬」と「賜物」 です。まず、死は報酬、つまり相応の理由や原因があって受 けるものと表現されています。それに反して、永遠のいのち は賜物、つまりプレゼントということで、相応しい働きはし ていなくても、誰かの愛と好意によって与えられるものだと 記されています。しかもこれは、「神のくださる賜物」だと 言われています。永遠のいのちとは、永遠であられる神さま ご自身の聖いいのちです。このいのちを持つ者に、死は支配 権をもつことが出来ません。また、「私たちの主キリスト・ イエスにある」と書かれているように、このプレゼン吊は、 ィェスさまを通して私たちに与えられることが明らかにされ ています。「キリスト・イエスにある」とは、イエスさまが、 十字架の死によって救いの道を開き、復活によってそれを保 証され、すべての人が永遠のいのちを受ける道を開いてくだ さったことを示しています。そしてこの方を「私たちの主」 として信じる者こそが、この賜物を受け、永遠のいのちを持 つ者となることが約束されているのです。
『イエスさまの十字架』によって もたらされたこのプレ ゼントは、きょう、あなたのものとなっていますか。
09'05.10 (日)
☆ 「イエスさまの十字架」@(A・K)
人がその友のために命を捨てるという、これよりも 大きな愛は誰も持っていません。・・わたしはあなた方を 友と呼びました。(ヨハネの福音書15章13・15節)
これは、イエス、・キリストが、十字架にかかられる前夜に 弟手たちに語られたみことばです。これから十字架でご自分 のいのちをお捨てになる意味を、ご自身で解説されたとも 言えるお言葉です。また、友とは好意と愛の対象であり、 その愛の最大のあらわれは、友にいのちを与えることだと 示しておられます。イエスさまが語られた愛とは、受ける ことを期待せず、報いや返礼を望まないで、全てを与える 愛だということが分かります。それは単なる思想ではなく、 具体的に与え尽くす愛でした。
母親は、子どもの必要のためならば、自分の体の一部や命 さえも厭わず与えたいと思うでしょう。けれども、その対象 が我が子でなく、愛するにも値しないと思われる罪人、反逆 者、汚れた者であったら、自分自身までも与えようとするで しょうか。しかし、「友のためにいのちを捨てる」と言われ た主は、確かにそのことを十字架上で成し遂げでくださり、 すべての人に対して「あなたがたを友と呼びました」とおっ しゃって、その犠牲が愛に因ると示してくださっているので す。『イエスきまの十字架』に、その深い御愛が見えたなら、 今すぐ、友である主からその愛を受け取ってください。
09'05.03 (日)
☆ 「あがない主からあなたへ」A(A・K)
『あなたは、わたしに忘れられることがない。…わたしは、 あなたの、そむきの罪を雲のように、あなたの罪を、 かすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、 あなたを贖ったからだ    (イザヤ書44章22節)
人が、神様に立ち帰ろうとするとき、それを妨げる最大の ものは『罪』です。 罪は、神様に助けを求めて祈ろうとする とき、私たちの心を弱くし怯ませます。また、神様と人間、 人と人、あらゆる人格的な交わりの邪魔をし、私たちから 平安や喜びを奪う根底的な理由となるということを聖書は 教えています。
この子『罪』を どれほど悲しんでも、白分では決して消し 去ることができない私たちに、神様は、上記のような愛に満 ちたみことばをくださいました。「あなたのそむきの罪」、 「あなたの罪」と表現されながらも、私たちを責めることは なさらず、ご自身が代価と犠牲を払って、その始末をして くださったことを明言しておられます。この、「わたしは あなたを贖ったからだ」という宣言こそが、「良い知らせ… 福音なのです。贖い主はあなたに、ご自身との間を隔てて いた罪は、もう「ぬぐい去った」のだから、「わたしに帰れ」 と招いておられるのです。この御声に従い、向き直るなら すぐに、私たちはその愛のふところに迎えられるのです。
09'04.26 (日)
☆ 「あがない主からあなたへ」(A・K)
『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を 渡るときもあなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、 炎はあなたに燃えつかない。』(イザヤ書43章1−3節)
何という、力強いお約束でしょうか。いざというとき、孤 独でなく、頼りになる何か、誰かの存在があるということは、 私たちにとって重要です。このみことばは、私たちがどんな ときにも頼るべきお方ご自身からの語りかけです。
なぜ、それが私へのお言葉だと言えるのでしょう。それは、 「贖った」という一言があるからです。「贖う」というの は、代価を払って買い戻すことです。主は十字架の死という 尊い犠牲の代価によって、神様に背き、離れていた私たちを、 再び神様のものとしてくださいました。この恵みを自分のも のとして感謝し、信じて受け取った事実か「償われた」とい うことなのです。ですから私たちクリスチャンは、きょうの 気分や、今おかれている環境にかかわらず、信頼の拠り所で ある方をもつことができるのです。私にとって、あなたにと って、今がどんな時でも、贖い主からあなたへの語りかけは、 響き続けているのです。「恐れるな・‥あなたはわたしのも の。わたしはあなたとともに」いると。
09'04.19 (日)
☆ 「今の私」(A・K)
ところが神の恵みによって、私は今の私になりました。 (Tコリント15章10節)
パウロは9節で自分について、「最も小さい者」「価値の な早者」と表現しています。彼にこの自覚を与えたのは、彼 の名を呼び、「なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)と 問われた、復活の主のご顕現でした。このキリストとの出会 い(恵みの体験)を経て、迫害者であった彼は、教会のために、 苦労や犠牲を厭わずに働く者と変えられたのです。そんな彼 が発する「私は今の私になりました」という言葉は、私たち の耳に、「今はこんなに偉大な使徒となった」というように聞 こえてしまうことがあります。しかし、このときの彼にとっ ての「今」は、「毎日が死の連続です」(31節)と記されて いることに心を留めましょう。そのような苦難の中の自分を、 パウロは恵みによる「今の私」と理解し証ししているのです。
私たちはしばしば、「恵みによって」とは言い難い事態や状 況を経験します。また、神様の前の自分ではなく、自ら思い 描いたクリスチャン像や他の人と比較した「今の私」を見つめ て心が暗くなることがあるかもしれません。しかし、そのよ うなときにこそ、「私にも現われて」(8節)くださった復活 の主に目を上げ、上掲のパウロの言葉を「今の私」の折りと させていただきましょう。
09'04.12 (日)
★聖霊と火のバブテスマを求めて★(K・T)
今朝思い巡らされた御言葉は、マタイ3章11節「私は、 あなた方が悔い改めるために、水のバブテスマを授けていま すが、私の後から来られる方は、私よりもさらに力のある方 です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもあり ません。その方は、あなた方に聖霊と火のバブテスマをお授 けになります。」の洗礼ヨハネの言葉である。この「聖霊と 火のバブテスマをお授けになる」という約束に、私達は大き な希望を描かないだろうか。罪を悔い改め、十字架を信じ、 私達は水のバプチスマを受けてクリスチャンとなった。クリ スチャンとは、キリストに倣う者の意である。お互いはクリ スチャンとしてそれぞれの道を歩んで来たし、またこれから も歩もうとしている。しかし、ふと立ち止まる時、私達のク リスチャン・ライフ、これでいいのだろうか?との思いはな いだろうか。頑固な性格、信仰の上がり下がり、悪習慣から の脱却、悪癖、内面に加え外面の問題課題、数えたら幾つも の解決しなければならない事がある。お互いに失望し落胆す るしかないようにサタンは追い討ちをかけてくる。しかし感 謝しよう。イエス様は不必要なものを火で焼き、潔めて下さ り、又潔い心を聖霊の火で燃やして下さると約束されている のだ。イエス様の十字架は罪を赦すだけでなく、クリスチャ ンの持つ内面的な戦いに勝利を与えて下さる。聖霊と火のバ ブテスマを求めて前進し続けよう。御国にてまた会う日まで。
09'04.05 (日)
★圧倒的な勝利(3)★(K・T)
圧勝という言葉は、野球で言えば大きな得点差で勝つイメ ージだろう。では、困難や苦難の中で圧勝するとは、いかな ることだろうか。それは表面的なものではなく、すなわち、 心の営みにある。それはつまり「私たちを愛して下さるイエ ス・キリスト」を心の中に常に確認することである。否、こ のお方に全き信頼を置き、安心して困難や苦難を受け止める ことである。キリストは父なる神様を信頼して、捕縛、裁判、 十字架、死を黙して受け止められた。サタンの入ったユダに 裏切られ、ビラトの裁判に引き渡され、十字架に釘打たれ、 そして遺体はアリマタヤのヨセフに引き取られて墓へ…どの ひとコマを取っても、ご自身を全く委ね、なされるままの主 の姿をそこに見る。困難と苦難にスッポリはまり込んでおら れる姿を。しかし、そこには苦しみもがいて助けを求める姿 はない。なぜ?全く委ねられた肉体の内側には、聖霊が働い ておられたからである。故に主は死の床からよみがえられた のだ。私たちが苦しみをじっと受け止め、苦しみもがく自分 を委ね、信じて歩む時、聖霊は力を発揮される。助け主とし て、力を添える方として、導き手として、私たちひとりひと りに干渉される。このお方こそ、私たちの弱さを助け、傷を癒 して下さるお方である。自分に拠る心を放棄して、主に信頼 しよう。死の床よりよみがえられた主とともに、『ローマ8: 37』と賛美することができる。聖霊に満たされよう。
09'03.29 (日)
★別れに期待されること★(K・T)
「あなた方は自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。 聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧 させるために、あなた方を群れの監督にお立てになったので す。私が出発した後、狂暴な狼があなた方の中に入り込んで 来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなた 方自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子 たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょ う。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も 昼も、涙とともにあなた方ひとりひとりを訓戒し続けて来た ことを、思い出してください。今私は、あなた方を神とその 恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなた方を育 成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を 継がせることができるのです。(使徒20:28〜32)この度 私たちは、次の奉仕場に向かって30年住み慣れた徳島を去 ることとなった。ここでの奉仕は、建築でいうならば既にあ った建物を壊し、更地にして基礎工事をし、上層建築を経て 教会を建て上げたといっても過言ではない。ひとりひとりの 心に十字架を建て、主の御像への建築をこ志してきた。ディ ポーション、聖書通読、とりなし等だいぶ身についたと思う。 三位の神からの期待を上句に見ることができる。十字架のキ リストと神のみことばへの信頼、聖霊への従順がさらに深く されることが期待されている。この別れをもって、前進を!
09'03.22 (日)
★圧倒的な勝利(2)★(K・T)
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人 は、なんと幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)これは高齢 になって男の子を授かったエリサベツの告白である。彼女の 夫のザカリヤは祭司の務めをしていた時、御使いに「私もも う年寄りですし、妻も年をとっております。」と答え、「あ なたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のこと ばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば 実現します。」と言われてしまったのである。二人とも、神 の御前に正しく、主のすべての常めと定めを落ち度なく蕗み 行なっていた。子どものことを祈りながら年をとってきたの だ(ルカ1:6〜20)彼らは信仰厚いクリスチャンとして、長 年神に仕えて来た。しかし子どもという具体的問題において は、神を待ち望む倍仰がなかったようである。その間題につ いては常識的判断を超えることができなかった。この夫妻に 神の干渉は加えられた。ザカリヤはものが言えなくなって、 御言葉への信頼の大切さを学んだ。その夫を見て、エリサべ ツは冒頭の告白をすることができた。ここに聖霊の干渉を見 ることができる。御言葉を100%信じきることの幸いを、心 から喜びをもって告白しているのである。しかもマリヤと手 を取り合いながら。御言葉は必ず実現する。信じきって待ち 望む心に!自我を十字架につけ聖霊に従おう。聖霊は御言葉 を実現して下さる。自らのおるべき霊的な場所にい続けよう。
09'03.15 (日)
★圧倒的な勝利(1)★(K・T)
風の寒さが残っている朝の散歩であるが、恵みに心暖めら れ感謝している。8日に受洗された姉妹のことを通してで あるが、背後に彼女のお祖母様による御言葉の伝道と祈りが あった。そしてその祈りは海を越えて叶えられた。
日本に行ったら必ず教会に集い、洗礼を受け、クリスチャンになるよ う勧められていた。
とはいえ、徳島にも幾つかの教会があり、どこへ行けば?と彼女は迷っていた。
しかし迷いながらITのエキスパートである彼女は、ITにより当教会の信仰理念 を知り、救いを求めて教会生活を開始した。
神様の臨在、イエス・キリストの十字架の事実を、聖霊の助けを得て自らの 罪の代価として受け入れ、救いの信仰に立ったのである。
祈りは距離を越えて応えられた。私たちが祈り始める時、天地 創造において活躍された聖霊の活動が開始される。私たちの 祈りと聖霊の働きによって業はなされていく。特に、ひとり の滅びるのも望まない神のみこころが実現されていく。お互 いの祈りはどうだろうか。反省してみよう。
聖霊の働きに期待を持って祈っているだろうか。お題目的な祈りに終止符を 打ち、聖霊の働きに期待して、どんなことでも心をさらけ出 して祈ろう。夜もすがら涙する問題でも、胸が押しつぶされ てしまいそうな問題でも、折りに働かれる聖霊によって解決 が与えられるだけでなく、圧倒的な勝利を経験させてくださる。
聖霊の働きに期待して、祈りに励もう(ローマ8:27)。
09'03.08 (日)
★御霊によって歩む★(K・T)
「御恵によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望 を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16〉 この御言葉を今年の年頭聖句に選んだ方も幾人かおられるが、 2ヶ月月経ちその成果はいかがだろうか。この、御霊によって 歩むとは、一体どう歩むことだろうか。マタイ14:23〜33 のペテロを思い起こしていただきたい。
「来なさい」とイエ ス様に言われて、ペテロは舟から出て水の上を歩いてイエス 様のほうへ向かった。この海上歩行こそ、御霊による歩みで ある.そこには主の御言葉に対する全き信頼があり、主に近 づこうという心がある。自分という要素が除かれ、聖愛に満 ちた心がある。その時、海上歩行が実現したのである。この 心の状態を保てたら、イエス様のもとまで到達できただろう。
しかしペテロは、風を見てこわくなった。途端に沈みかけ、 主よ助けてくだきいと叫んだのである。助けを求めるなら、 なぜ自分を捨て続けることに集中しなかったのかとも思うの だが、それが罪によって結果した人間の弱さである。自我が キリストの十字架に共に死に、潔められないと、ペテロと同 様、浮き沈みの生活を送ることになる。海上歩行を可能にし た心の状態を保つ、これが聖霊によって歩むことである。自 分の考えや習慣に固執する頑周さや強情を打ち砕いて頂いて、 聖霊に扱われ続け、柔らかな心に成長していくと、聖霊によ る歩みが可能になる。白らを御手に委ね、大いに扱われよう。
09'03.01 (日)
★感謝をもって…祈り★(K・T)
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってさ さげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っ ていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる 神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあ って守ってくれます」(ピリピ4:6、7)。
この御言葉は、牢獄という最悪の逆境にあったパウロが、順境の中にあるピリ どのクリスチャンたちに送った手紙である。あなたは刑務所 に入所している方に手紙を書いたことがありますか。これは 順境の中で、逆境と思われる方に送る手紙やある。しかし、 この箇所の御言葉は逆だということがお分かりだろう。人間 は思い煩いに弱い。自分の弱さを告白しながら、なお思い煩 っているのだ。それが証拠に、神様に祈ってお委ねしたと告 白しても、立ち上がると早や心配と不安に心が揺れてしまう。
祈っても平安がない、思い煩いが、心に住みついているのか。 パウロは、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを 学びました。」(ピリピ4:11)と告白しているように、常に 神の平安に支配された心を保っていた。その心に、神に満た される喜びと満足があった。聖霊なる神は、私たちをもその 次元にまで引き上げることがお出来になる。感謝をもって祈 ろう。失敗しても祈り続けよう.感謝結過去の恵みを思い起 こさせ、私たちを全能の神のもとに導いてくれる。
そして感謝は、この全能の神への情婦を与えて、祈りへと導くのだ。
09'02.22 (日)
★弱さの転用★(K・T)
ここ数日中川大臣のことが話題になっている。原因はアル コール依存にあったとの由。任務による挫折ではなく人格的 な問題で辞任とは、なんと残念なことか。人間としての幼さ と、日本の恥となってしまった影響は否めない。
人間であるゆえの「弱さ」は否定できないため、「弱さ」にどう取り組 むかが大切になる。世にある手っ取り早い解決法は、「物」 に依存することである。しかしこの方法には危険も伴い、時 には大臣のような失敗や、いのちを落とすことさえある。
聖書では、己の弱さを自覚し神の前にそれを告白して変えられ た人を数多く見る。パウロは「私は、キリストの力が私をお おうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Uコ リント12:9・10)と告白している。「物」ではなく「キリス ト」への依存である。しかも「弱さ」を誇れるとは、なんと 索晴らしい解決法であろうか。ガラテヤ5:24に「キリスト・ イエスにつく者は、自分の肉を、様々の情欲や欲望と共に、 十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって 生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」と 勧めている。人格的弱きは、不信仰、不服従、怠慢、信仰生 活の矛盾等を悔い改め、神との関係を正しく修正することに ょぅて除去されていく。一方人間的な弱さ軋神に掌ねるこ とにより謙遜へと導かれていく。御霊に導かれて進もう!
09'02.15 (日)
★主と共に★(K・T)
「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めてお られるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりく だってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ6:8)。
"プロテスタント宣教150年、イエス様と共に、愛と赦し を持って互いに仕え合う教会の建設を目指そう"と2月の聖 宣に記されている。イエス様と共に歩むとはいかなることか、 考えてみよう。共に歩むためには、まず相手を知る必要があ る。
主はあなたにとっていかなる方なのか。私にとって主は、 私の罪のために、十字架の身代わりの刑を受けて下さったい のちの恩人である。また、心を堅め、主の御姿へと導いて下 さる聖なるお方である。この主と共に歩むとは、その性質に あずかり、主と同じ心になることだ。主に似ていかないのは、 主と共に歩んでいないことを意味する。
次に主と共に歩むとは、神の御心に反しないこと、すなわち思い、言葉、行動に おいて聖霊を墓えさせないことである。口の言葉、心の思い が御前に喜ばれるように、行動も神の御心に従うことである。 さもに主と輿に歩むとは、徹底して肉に死に霊に生きること である。すなわち知・情・意のみでなく、弱さも乏しきも思 い煩いすらも御手に委ねて、聖霊のコントロール下に生きる ことである。肉は悪癖や悪習慣に巣食っている。言い訳に迷 わされてはいけない。しっかり自らを主と共に歩む者として 聖別しよう。主と共に歩む者を、三位の神が祝して下さる。
09'02.08 (日)
★苦難がもたらす実★(K・T)
数日前の新聞のコラムに『地震は神様のふるいでしょうか。 野心も欲も整理され、今あなただけがそばに居る。』という 文章があり、多くの語りかけを頂いた。これは1995年の 一筆啓上賞の日本一短い手紙に応募された投稿文で、震災に 見舞われた神戸から発信されたという。もしかしてこの方は クリスチャンでは?と思えたからだ。
何年間も切れることのなかった涙も枯れ、長い間心を押しつぶしてきたつぷやきも 消え、心空しくして御前に座っている時悟らされた心境を文 にしたのがうかがえる。クリスチャンでないとしたら本当に 素晴らしい悟りである。 なぜなら、苦労が必ずしも人格に良 い結果を与えるとは限らないからだ。「すべての懲らしめは、 そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われる ものですが、後になると、これによって訓練された人々に平 安な義の実を結ばせます。」(へプル12:11)には、キリ ストの十字架によって義とされた者の益のため、また私たち をご自分の聖さにあずからせようとして懲らしめる、神の思 いが示されている。しかしクリスチャンでありながらその神 の思いを理解できず、苦難にジタバタしてしまう者も多い。 苦難に訓練されるとは、柔道技の受身のようなものである。 相手を倒すというより、苦難の勢いを借りて上手に倒れる技、 すぐ起き上がる技を磨くのだ。そうしていくうちに苦難の背 後にある三位の神の臨在に触れ、人格に結果が!ハレルヤ。
09'02.01 (日)
★からし種の信仰★(K・T)
「神の国は何に似ているでしょう。‥・それはからし種のよ うなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木 になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」(ルカ13:18、19)
「からし種の信仰」を考える時、お互いの焦点はどこにある だろうか。からし種、すなわち小ささにあるのではなかろう か。自分の小ささ、自分の信仰の小ささ等々に。そしてそこ で留まってしまっている危険性も感じるのである。しかしそ こで留まってしまっているとしたら、イエス様が言わんとし た意図の半分も理解できていないことになる。すなわちどん なに小さくても「いのち」があれば大きくなり、他に役立つ 存在になる。“それが神の国だ"と言われているのである。 信仰は、信仰の対象者が如何なるお方であるかを全体的にと らえることに比例している。大きさの問題ではなく、「いの ち」があるか否かが問題なのだ。私の罪のためにいのちを捨 てられたイユス様を信じて救われたお互い、このお方への信 頼度は何%になっているだろうか。イエス様は救いだけでは ない。心の潔め、日ごとの信仰の営みの助け、導き、教え等々、 信ずる者の心の内にあって、信仰に比例して働いて下さる。 すなわち神の働きが期待される。白分の信仰にしがみついて、 三位の神を頼りにする心が成長していない。自分の一生懸命 さを頼りにした信仰の域を脱していないということだ。心を 主に委ね、いのちの信仰に成長させていただこう。
09'01.25 (日)
★勇敢でありなさい★(K・T)
キングという名の黒人牧師の暗殺事件を記憶しておられる だろうか。彼は“私には夢がある。と、黒人差別問題と戦っ た勇敢な器であった。“人間は肌の色で差別されてはならな い、本当の価値は人格にある”と、黒人一人一人が立ち上が ることを祈りつつ、志を半ばに天に帰ったのだ。その祈り の答えを見る思いで20日の初の黒人大統領就任式を見てい た方が、私の他にもいらっしゃるのではないだろうか。この度 大統領に就任したオバマ氏は、白人と黒人との間に生まれた 混血であり、6才の時に親の離婚という決して喜べない生い 立ちをしている。しかし、小学生時代になりたい夢として” アメリカの大統領”と記していたといわれている。祖父母の 愛と神の愛に育てられていく彼の背後に、摂理の神の働きを 感ぜずにはいられない。彼はリンカーンとキング牧師を尊敬 していて、若い時代貧民街の活動に力を入れ、現実主義を養 っている。その基調に立った信仰によって、”yes,we can”をモットーとしている。クリスチャンである私達は、 彼の言葉の背景を正しく理解したい。就任演説の一部「我々 は勇気をもって来る嵐を耐えることができる」は含蓄が深い。 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢 でありなさい.わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ 16:33)とは私たちの罪のために命をはって下さったイエス 様の約束である。逃げないで、一つ一つ勇気をもって戦おう。
09'01.18 (日)
★誤算★(K・T)
今朝の散歩でふと思い出した器があった。私たちが牧師の 駆け出しの頃、信仰の道を共に歩んだ方だ。ある時彼が語っ た言葉にハッとした。“僕は家庭の顔と職場の顔、教会の顔 と3つの顔を持っている“と。それから祈りは始まった、十 字架に導かれるようにと。やがて彼は仕事で失敗、二度と立 ち上がれないかと思うほどだった。しかし彼の妻は、神第一 の信仰を持って背後から祈っていた。憐れみ深い神は、妻の 祈りにも応えられ、彼は十字架に立ち返った。本来のありの ままの顔になり、今は神第一の生活をしている。世の中では 驚きや器用さ、賜物などは魅力あるものだ。しかしクリスチ ャンは、気をつけてそれらを扱わなければならない。なぜな ら、その賢さ、器用さ、賜物を、自分のものと誤算しやすい からだ。そんな誤算で誇っていると、サタンに付け込まれ、 足元をすくわれ破壊される。賢さも器用さも賜物も、すべて 神が出所である。したがって、出所である神の御手に委ね、 神の栄光のためにのみ使いたい。自分のために流用すると、 大変危険である。したがってそれらの扱い方も、いちいち聖 霊の干渉と御指導を仰がねばならない。面倒臭いようでも、 注意書きをよく読み、祈り、それらを御手に委ね、自我が主 と共に十字架に死に続けているならば、愚かであっても迷う ことはな亘お互いにどこにあっても十字架の御旗を掲げ、 鮮明にして歩みたい。ルカ12:13〜21の金持ちに見るよう に、誤算によって生命を落とすことのないように心したい。
09'01.11 (日)
★ともにいていただくために★(K・T)
昨年通読マラソン完走者への賞品は、ディボーションカードだった。
31枚あって、1ケ月使えるようになっている。「私はいつも、私の前に主を置いた。 主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)のカードの裏にはメッ セージが。「私はいつも」という言葉は、その人の生活を表わす。 いつも自分の前に主を置くとは、いつも主がともにいてくださることを 意識しながら生活することだ。これを習慣にしよう。
そのことができるようになれば、どんなことに出会っても、ゆらぐことはない。 −今日の祈り−「目には見えなくても、主がいつも目の前にともにいてくださることを意識 して今日も歩みます」となっている。先週の石の枕では、神がいつも、 ともにいてくだされば安心であると述べたが、勘違いをしてはいけないことは、 私の側がどんな状態でもともにいてくださると思うことである。 そんなことは絶対にない。「心が聖くなければ主を見ることはできない」(ヘプル12:14)。 主は、心聖められて主を意識して歩む者とともにいてくださる。信仰は、主を意識して歩む意志が必要である。 弱く忘れやすい心を御手に委ね、聖霊の干渉を頂き、固い意志を頂いて、ともにある意識を強めたい。 信じて従う者に三位の神がともにおられ、すべてのことを相働かせて益としてくだきるのである。 年頭礼拝に学んだように、今年も聖書を通読(できたら年1回を)、ディポーション等に挑戦しよう。
09'01.04 (日)
★いつも、ともに★(K・T)
昨年暮れのことだった。年賀状を書き上げ、郵便局へ。出 した直後、失敗した年賀状1枚がないことに気づき、再び郵 便局へ走り年賀状を点検。すると、なんと!出した中に白紙 の年賀状を15枚も発見!しかし失敗した年賀状の方は見つ からなかった。後ほど、その年賀状が家の中から見つかり、 神様の助けの完璧さを感謝した。なぜなら、郵便局に行く前 にその失敗した年賀状を見つけていたら郵便局に行かなかっ たわけで、そうしたら、白紙の年賀状が10通余り届くこと になるところだったのだから。神様の御守りの素晴らしさ! 「私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足 をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」 「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまで も守られる。」(詩篇121:2〜3、8)感激の一瞬だった。この 経験を通して聖霊は、私にlつの御言葉を示して下さった。 「見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなた方とともに います。」(マタイ28:20)いつも、ともにいて下さるイエス 様、聖霊なる神様、父なる神様、この三位の神様の臨在の前 に、ありのままの心で従わせて頂きたいと、献身を新しくし たひと時だった。2009年、お互いにとってどんな年にな るかわからない。しかし三位の神様がともに、しかもいっも いて下さるならば十分だ。天地を造ちれた神様が、お互いの 小さな事にいたるまで御干渉下さるなら、今年も平安なのだ。
08'12.28 (日)
★礼拝と献納★くK・T)
御降誕の講壇を通して私達は、人間の側の「従う」という 行動なしに神の御計画は進められなかった、即ち、御心に従 うことが、神の御心が果たきれるために大きな役割を果たし た、ということを学ぶことができた。マリヤとヨセフにその 信仰の行動を見る。神が御子を与えて下さった事実への黙想 は、昨年より少し深まっただろうか。聖霊によってその事実 が心中にうなずける時、不平やつぶやき、恐れも不安も消え、 神の愛に憩うことができ、礼拝へと導かれる。東の博士達は 長い間星の探求を重ね、その星を見て、この上もなく喜び、 長い旅を続けて礼拝へと導かれる。そしてその家に入って、 母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝み、宝の 箱を開けて黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた(マタ イ2:10〜11)。
塵に等しい人間に、献納の機会と可能性が与 えられている事実をここに見る。彼らはささげることの幸い、 与えることの幸いを経験して喜んだ。ひれ伏し拝み、ささげ る喜びをこのクリスマスに経験できた方は幸いである。ささ げものが神へのディボーションをさらに深めるためのものと して用いられるよう、祈ってやまない。
賛美歌503番「@御前にひれ伏す卑しき身は へりくだりをもて祈り求む ささ ぐるものなく善きわざなし 恵みにて賜えただ愛をば C恵 みのすべてを知り得ずとも ただ知る主の愛放たざるを す べてを見たもう造り主に 近づきまつりて常に憩わん」と。
08'12.21 (日)
★みどりご★(K・T)
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生 まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがた は、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つ けます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2: 11、12)
天使のお告げを聞いた羊飼い達はみどりごを探し当 て、喜び感激した。星に導かれた博士達も、黄金、乳香、没薬をささげて礼拝した。
「みどりごになられた神の御子、その御姿はどんなに高貴に輝いていたことだろう。 平素私達が産院で見る赤ちゃん達も、それはそれは可愛く輝いて見える。
彼らには多くの可能性が秘められ、希望が感じられ、将来へ の明るさを思うことができるからだ。しかし神の御子なる「み どりご」は、可愛く輝いて見えても、将来への明るさを思うこ とはできない。なぜなら、「彼には、私達が見とれるような姿 もなく、輝きもなく、私達が慕うような見ばえもない」(イザ ヤ53:2)生涯が彼を待っているからだ。十字架による死、自 分の子供の最後がそうだと知らされたら、私達はどうするだ ろうか。悩みに悩んで暗く希望のない生活を送る親や、子供 と共に死のうと思う親があるかもしれない。父なる神は、あ えてひとり子を「みどりご」とされた!なぜ?それは、人間の 罪を赦し、心をきよめ、三位の神との交わりに導くため。「み どりご」に秘められた大きな可能性こそが、貧しく無力な人間 の唯−の希望なのだ。「みどりご」の御誕生を深く寿ごう。
08'12.14 (日)
★聖家族★(K・T)
今朝の感謝の黙想をご紹介したい。ルカ2章10〜13節 に「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、 私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たので す。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお 生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたが たは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見 つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』する と、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が 現れて、神を賛美して言った。」とある。
馬小屋のイエス様を中心としたマリヤとヨセフの姿を、よく「聖家族」と呼ぶ。 この愛と信頼に結ばれた家族が、どんなに多くの人々に光と メッセージを与えて来たことだろう。このたび大塚美術館で 見た聖画に、光を与えられた。それは、十字架を背後から覆い 支えておられる神の臨在を描いている絵だった。そこに画家 の信仰を伺い、大変うれしくなったのだ。そしてイエス様の 誕生の絵にも、三位の神の臨在を描こうとして苦心した画家 がいたのではなかろうかと思った。「聖家族」、それは三位 の神の御姿であり、人間の世界にその御姿を見える形にして 下さったのがイエス様の御誕生で、そこには父なる神、聖霊 なる神も臨在しておられたに違いない。この「聖家族」にな らい、愛と信頼の家族を築くようにと三位の神が応援して下 さっている。クリスマスとなられた三位の神に、栄光あれ!
08'12.7 (日)
★この人を見よ★(K・T〉
賛美歌153番に「この人を見よ」と歌われているように、 このクリスマス節期、飼い葉おけ以上に貧しく汚れた人間の 心に住まい、罪を赦し、罪性を潔めるために天から降りて来 られたお方をしっかり凝視したい。とともに、使徒ペテロと ヨハネが、生まれつきの足なえに「私たちを見なさい」(使徒 3:3)と言って足なえを立たせたように、主を知らない方々 に、イエス・キリストによって救われ、自由の恵みと喜びに連 れた「私たちを見なさい」と言える者でありたい。
クリスチャンとは、キリストのまねをする者というあだ名である。キ リストを心に住まわせ、喜び賛美する人だ。
誰かが接して私もあの人のようになりたい≠ニ思えたら、その人の証詞は 祝福になる。伝道する時、自らの品性や行動、家庭の建設に おいて〃おかしい≠ニ聖霊によって思われる部分があるなら、 神のわざは進まない。クリスチャンとして、自らの弱さや欠点に 正面から向き合い、聖霊による恵みを得て、更に神が共 に働かれることが期待される。
聖霊以外の何かで解決しても、それは実は神の御心を止めてしまっているのだ。 私たちは品性に行動に、社会生活・家庭建設等総合的に健全な成長を求 めたい。1つ1つ聖霊の点検と干渉を頂き、キリストを主と する自分に生きよう。聖霊は助けて下さる。
手を伸ばしたら星が取れそうに近い天を仰ぎながら、キリストの降誕とその 恵みを受けた者の責任の大きさを、改めて白覚した朝だった。
08'11.30 (日)
★私の目こは★(K・T)
第27回あわ聖会は、参加者に多くの恵みをもたらして終 了した。私が傷だらけの心で放浪していた若い日に出会った 三森先生ご夫妻。三森師と師が取り次がれるメッセージを実 践しておられた孝子師のコンビが大変新鮮で興味深く、 「なぜだろう」と追求が始まった。そして納得を得るまで温かく、 優しくご指導頂いた。
孝子師の生き様は「常に喜び絶えず祈りすべてのことを感謝」する御言葉そのものだった。環境的 には最悪?と思われる、愚痴の一つを言ってもおかしくない 状況でも、一度も不愉快な顔や感情的な言葉はなかった。そ の理由がこの聖会で語られた。即ち、相手を斜めから見て 批判する誘惑にとらわれそうになる自分の傾向性を示され、 批判に傾く性質をイエス様の十字架につけた−という心の経験 を通して、「私の目こはあなたは高価で尊い、私はあなたを 愛している。」(イザヤ43:4)、「あなたは私に従いなさい。」 (ヨハネ21:22)との神の声を聞き、心に自由が与えられ、そ れからは人の言葉や態度に左右されなくなった、とのこと。
そして「ウジヤ王の死んだ年に」(イザヤ6は)を経験され、 その経験の中に歩み続けて現由こ至っていると語られた。ク リスチャンは“工事中”の看板をかけて歩んでいる。神様が 愛して下さるように自分を愛することができるなら、他を愛 することができる。神の愛を持って互いに仕え合おう。信頼 し合い、赦し合って。問題は確かのせいと思わず、十字架に!
08'11.23 (日)
★彼の傷による漬し★(K・T)
16日の礼拝前賛美は715番「わがため傷つき」だった。
“わがため傷つき 十字架にかかりし主よ 罪ととがは洗わ れ 自由の身とされたり”十字架を思い巡らしつつ新しい週 をスタートし、今朝は442番に導かれた。
“十字架に罪悩み置いて死にたまえる 神の独り子ありき 救い主イエス 誠に罪悩み担い去りたまいぬ 打たれし彼の傷にわれ今癒されぬ”
と繰り返しているうちに、私の心の目が十字架のイエス 様の目と合った。その日は清らかで愛に満ちていた。
じっと見つめている私の心に血潮による愛が注がれてきて、
心は温められた。打たれし彼の傷にわれ今癒されぬ。 聖霊は私の心の内を照らし、心の小さい、しかもだいぶ古い傷を示し、血 潮で洗って下さった。その時傷は癒されたのである。私の罪 と汚れがイエス様を十字架につけたのに、主は父よ、赦し て下さいと祈り、神の赦しを与えて下さった。
その代価としてささげられたキリストの御体、その手と足に打ち込まれ たクギ.この痛ましい傷こそが、私の心の傷を癒す特効薬な のだ。聖霊様、私の心にもう傷はないでしょうか≠ニ私は 祈っていた。罪を悔い改めて十字架を信じ、罪を赦され心に 平安を与えられてスタートしたクリスチャン生活ではあるが、 光のうちを歩み続け、信じ続け、従い続けることを通して、 心はいよいよ自由にされ、信仰から信仰に進み、平安はさら に深くゆるぎないものとされている恵みを経験し感謝した。
08'11.16 (日)
★感謝と賛美★(K・T)
9日のリスナー大会へ向かう車中、感謝と讃美の違いにつ いて話題になった。好機を得て調べてみた。
まず、「感謝」は聖書の、そしてキリスト者の最も特色ある強調点の一つ。 詩篇において繰り返し醇藤され、また実行されている。感謝 の根底には、万事を支配する神御自身とその摂理に対する感 謝がある。
新約聖書においては、キリストの購いの恵みが加わり その感謝は更に大きく深いものになっている。主御自身 も多くの具体的な事柄について感謝をささげている(ヨハネ 6:11他)。
次に「賛美」について旧約時代聖書では、古代 へブル民族が神に向かって発した歌声を「賛美」という言葉 で表現している。新約時代は詩と賛美と霊の歌といわれるよ うに、大体は聖書中にある詩篇以外のある型を整えて残され た賛美の歌とされている。
例えばマリヤの賛歌、ザカリヤの賛歌等。パウロがコ口サイ3:16に 「感謝にあふれて心から主こ向かって歌いなさい」と言っているのは、 神の恵みに促されて積極的に歌いなさい、とその魂の霊的な状態が「歌う」 という行為を誘発した時の方向性を示したものと解釈できよ う。中世には、アウグスチヌスが賛美は歌うことによる神へ の賛美と定義付けている。
ルネッサンス期には、ヘプル13:16の考えから、賛美は神の恵みに対する信仰者の応答であり、 感謝のささげ物であるとされた(以上新聖書辞典より)。感謝 と賛美。みなさんはどうお考えになるだろうか?
08'11.9 (日)
★摂理の神★(K・T)
渡り鳥が水面に浮かび、これから増えていく楽しみを覚え ながら、11月の散歩を開始した。
そして去る6日に圧勝を得て黒人初のアメリカ大統領に 決定したオハマ氏について考えた。
彼は肌の色のゆえに悩んだ日々があった。しかしそれを 乗り越えて弁護士となり、民主党議員4年にして大統領選に 立候補した。共和党地盤の州では困難と言われながらも圧勝 できた背景には、切に変革を期待する国民の声があった。
彼は奴隷解放宣言で知られるリンカーン大統領が唱えた「人民 の、人民による、人民のための政治」を勝利演説の中で用い た。アメリカの歴史の背後に「摂理の神」の存在ありである。
ユダヤ人の歴史にも同様のことがあった。その時エステルは 「行ってシュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために 断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないよ うに。私も、私の侍女達も同じように断食をしましょう。た とい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、 死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル 4:16)と語っている。
この勇気により、ユダヤ人は大量虐殺 の危機を逃れたのである。「摂理の神」の手をここにも見る ことができる。お互いがクリスチャンとせられ、徳島教会員 として生活している背後にも、この「摂理の神」が働いてお られることを覚えたい。こめ教会に私を導かれた「摂理の神」 への信頼と愛を、模範者キリストにならい全うしよう。
08'11.2 (日)
★天の都★(K・T)
10月の早朝の散歩は、朝焼けに輝ぐ晋雲の変化に魅せら れながら、会う人会う人に「おはよう」を交わす、さわやか なひと時である。と共に、先達方が帰らた天の都に思いを巡らす。
ヨハネは天の都について次のように記している。「その 城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金 でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られて いた。第一の土台石は碧玉、第三はサファイヤ、第三は玉随、 第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は 貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、 第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からでき ていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であ った。
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物 の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だか らである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。
というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからで ある。」(黙示録21:18〜23)と。諸国の人々が集められ讃美 を交わし合う姿をなんと表現すれば良いのだろうか。言葉を 失いながら、キリストの十字架の血によって罪を赦されただ けでなく、この天の都に帰れる者とされた恵みを心から感謝 した。
「見よ、私はすぐに来る。私はそれぞれのしわざに応 じて報いるために、私の報いを携えて来る。」(黙示録22:12)
08'10.26 (日)
★共に働いて★(K・T)
S姉(加西市)訪問は午後11時と決めているため、その日 は午前に別の訪問の予定を入れた。
来年の四国聖化大会の講師・大島先生(神戸市)と午前11時半にお会いし、初めてお目 にかかったにもかかわらず話が弾み、愛に満たされ、潔めら れる神を望めて先生と別れためが午後1時15分、大幅に到 着は遅れて午後2時近くになった。
さて集会が終わる頃、 Hさん親子が現れ、幸いな交わりの時となった。散歩で疲れ たため昼寝をされていたのだが、目覚めて元気な顔を見せて くれた。
しっかりした足取りで歩くHさんに、祈りに応えて 下さる神様の聖名を崇めた。
集会で開かれた御言葉はロ−マ 章18〜30節であったが、私の心に飛び込んできた御言葉 は、28節の「共に働いて、万事を益となるようにして下さる (口語訳)」であった。
万事を益となるようにして下さる神様 が、この日私たちと共に働いておられたことへのうなずきは、 私の心を喜びで満たした。
マルコ16章20節には「主は彼ら と共に働き」とあり、いつもイエス様が共に働いて下さるこ とへの自覚は持っていた。
またローマ8章26節「御霊も同 じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。」と、聖霊 が、どのように祈ったらよいのかわからない弱い、私たちのた めに、代わりに祈って下さることも自覚してはいた。
しかし ながらこの経験は、三位の神が総動員で御声に従う者と共に 働いて、万事を益として下さることへの納得となった。感謝!
08'10.19 (日)
★いのち★(K・T)
教会の玄関前にあるモミの木にキジ鳩の巣があることは、 皆様ご承知の通りです。
今では近所の方々にも幸いな存在と なっています。今年も1月末から好調な滑り出しで、2組の雛 4羽が巣立ちました。
しかし3組4組の2回は卵が孵化せず、 親鳥は悲しげな声をあげ、卵を転がして確かめた後‘嘆きな がら巣から去って行きました。現在5組目が雌を呼んで啼いて いますが、結果ほ乞うご期待といった心境です。
なぜ孵らなかったのか、いろいろ考えられるとは思いますが、いずれ にせよ無精卵で孵るいのちがなかったということだけは確か です。
同じ日数、親が交代で温めたにもかかわらず、卵は孵り ませんでした。私たちも残念でなりませんでした。しかしも し人間にこんな事(甦らない)があったらどうでしょう。人 類最大の問題になるに違いありません。
肉の衣を脱いで霊にかえる甦りの時、甦らないとしたら、あの人はいのちがなか ったではすまないのです。
同じクリスチャン生涯を歩きなが らもいのちがない場合があるということを、この事実は示唆 しています。心しましょう。
主は「私は甦りです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11: 2)と言われました。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(Iヨハネ5:20)と約束されています。
このイエス・キリストを確かに心に持づているでしょうか?
甦りの時に明るみにされる「いのち」に生きましょう。
08'10.12 (日)
★勤勉★(K・T)
今年のノーベル賞受賞者が発表された。日本人の受賞者は 物理学賞3名、化学賞1名の計4名、うち2名の方はアメリ カ在住とのこと。この4人の方々の共通点は、「勤勉」と「集 中力」だと思われる。
もちろん、賜物としての頭脳も否定で きないと思うが。マタイ25草には、5タテント、2タラン ト、1タラントと、能力に応じて財産を預ける話がある。
その差は厳粛に受け止める必要がある。しかし各々の持つ能力 に対して、それぞれがどう向き合うのかが重要なのだ。
すなわち「勤勉」をもって倍加すること。が期待されているのであ る。結果、5タラントの者はさらに5タラントを、2タラン トの者はさらに2タラントを儲けた。この2人への評価は「よ くやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠 実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人 の喜びをともに喜んでぐれ。」というものだった。
しかし1タラントの者への評価は厳しい。それだけではなく、彼の1 タラントは取り上げられ、他に渡さねばならなかった。すな わち「忠実さ」と「勤勉」が、与えられた能力に対して期待 されているということである。30年以上にわたり、コツコ ツと地味な研究をやり続けた結果がノーベル賞なのだ。
クリ スチャンの「忠実さ」「勤勉」に対して与えられる評価は、 「主人の喜びをともに喜ぶ」ことである。天の表彰式には義 の冠が備えられていることを覚えよう。
08'10. 5 (日)
★成長★(K・T)
28日の礼拝後には愛ちゃんと遊ぶ時間が与えられた。先 月まで白板のマグネットピンを外すだけだったのに、はやピ ンのマグネット部分を白板に向けて取り付け、手をたたいて 喜んでいる。その成長の早さには目を見張らされる。
1回1回驚きの発見を楽しみにもしている。この成長の背後に、育て たもう神様の恵みがあること、また両親の愛と、愛を土台に した献身的な保育があることを覚えたい。
出生当時、父親は学校を早退して彼女の産湯を使ったという。 入浴とともに食事の調節、排泄の調節と慣れない者同士が戸惑いながら一 つずつクリアし、一年を経過した。順調に育ち、ハイハイし、 つかまり立ちするようになり、体の成長とともに頭脳も成長 していく。なんとすばらしいことだろうと深く感動させられ る。とともに、霊の成長にも同じことがいえるように思う。
エペソ4章15節に「愛をもって真理を語り、あらゆる点にお いて成長し、かしらなるキリス封こ達することができるため なのです。」とある。私たちの内に住んでおられるキリストの 成長が順調であるか否か、反省する必要がある。デイボーシ ョンについて、聖書通読について、とりなしの祈りについて、 集会出席、献金、伝道、奉仕とあらゆる角度から点検して、 ベストのクリスチャンへと成長したい。「そういうわけです から、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に 役立つこととを追い求めましょう。」(ローマ14:19)
08'09.21 (日)
★天国市民の礼拝へ★(K・T)
去る9月15日、S姉の葬送式が営まれた。
司式者は説教で「S姉は地上の礼拝から天の礼拝に移された」と 語られた。棺に納められた遺体は、大変笑顔美しく、まるで 賛美をしている様で、本当に天の礼拝に移されたのだと納得 させられた。
天の礼拝。そこでは、あらゆる国民、部族、民 族、国語のうちから数え切れないほどの大勢の群集が、白い 衣を着て、棕櫚の枝を手に持って、御座と子羊の前に立ち、 大声で叫んで言う。
「救いは御座にある私たちの神にあり、 子羊にある」と。またひれ伏してアーメン、賛美と栄光と 知恵と感謝と誉れと力と勢いが永遠に私たちの神にあれ」と 神を礼拝するのだ。
なんと素晴らしい、そしてスケールの大 きな礼拝であろうか。限られた地域での礼拝から、永遠に続 く、神様とイエス様を目の前にした礼拝!
到底地上では想像 すらできない光景ではないだろうか。70歳を過ぎてもコワイ ヤーで歌っておられた姿を思い出す。老いると何でも消極的 になりがちだが、信仰の良い先輩に恵まれて感謝している。
天の礼拝に加わった姉は「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐ い取ってくださるのです。」(黙示録7:9〜17)の恵みにあず かっている。
神様が涙をすべてぬぐい取ってくださるという のである。ハンカチか、手ぬぐいか、あるいはティッシュペ ーパーか、神様が御手をもって、天に帰ったひとりひとりの 涙を一滴残らずぬぐわれるのだ。永遠の慰めにハレルヤ!
08'09.14 (日)
★天国市民のオリンピック★(K・T)
熱気に産れたオリンピックが終わり、現在はパラリンピッ クが北京において行なわれ、メダル獲得に歓声が上がってい る。
日本の朝夕は、鈴虫やこうろぎの鳴く声が涼風の中に心地よ い。朝散歩をしながら、今日も神様の恵みを頂いた。
「闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ち る冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠 を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がど こかわからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて 従わせます。それは、私が他の人に宣べ伝えておきながら、 自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
(Iコリント9:25〜27)
天国市民のオリンピックには、健常者も障害者もない。 心にイエス・キリストを頂いた者が、どれだ け忠実にこのキリストを心に保ち、維持し、訓練し、成長で きるかが問われる。決勝点は神の御前であり、競われること は「忠実さ」である。
この競争には年齢の制限もない。神の 御前に立った時に「善かつ忠実な僕」と許されることこそ、 永遠の世勘こ通用する朽ちない冠なのだ。
そしてパウロは「あなたがたも、貨を受けられるように走りなさい。」と言う。 「忠実さ」が競われるなら、私たちにも賞が可能なのだ。失 格者とならないように注意しながら、決勝点を目指して、あ らゆることに自制し、従わせて頂きたい。
08'08.31 (日)
★バランス★(K・T)
8月28日で今年の四国聖会は幕を閉じた。またお会いで きることを願いながら、皆それぞれのコースへと遣わされて いった。感謝!
聖会の恵みを数えている時に、示された事が あった。朝食のバイキングは楽しいコーナーである。他の器 をのぞくと、ウインナー、卵、ハム、パンがあり、片手にオ レンジジュースが。その方は美味しそうに食べていたが、私 はそのアンバランスさに不満を感じた。
バイキングに並ぶ時は、私はまず栄養素の6群を確認する。
そして1〜6群から一品ずつ、バランスよく器に盛っていく。せっかく食品の種 類の豊富なバイキング、たとえ種類が少ない時でも、バラン スよく栄養素を換ることを心がけている。健康の秘訣はそこ にあると思うからだ。
聖会も一つの霊的なバイキングといえよう。聖会第1夜は、内面的罪を扱われる救いの恵みが確認 される。聖会第2夜は、性質的問題が扱われ、きよめの恵み が確認される。聖書講義は、直に手を触れながらじっくりと 聖書を学ぶ。宣教会は学んだ御言葉に生きて証しする。どれ も霊的な健康を維持するために、大切な栄養素が入っている。 バランスのとれた霊的バイキング、来年はぜひとも聖会を楽 しみに出席したい。
「平和の神御自身が、あなたがたを全く 聖なるものとして下さいますように。主イエス・キリストの 来臨のとき、責められるところのない様に、あなたがたの霊、 魂、体が完全に守られますように。」(Iテサロこニケ5:23)
08'08.24 (日)
★目をさまして、祈っていなさい★(K・T)
教会のフェンスにあったお花はどうしたんですか?ある姉妹から質問を受けた。
あれは昨年冬のこと…モミの木が枯れ始め、薬が落ちるようになった。
このまま枝だけになったらキジハトの巣が危ない!
この危機感が、数年間フェンスに美しい花をつけて私達を楽しませてくれた、 ノウゼンカズラを処分する決断へと導いた。
このカズラはモミの木の周りに根を張り、栄養分を吸い取りたくましく太くなり、フェンスの 先の方まで伸びて花を咲かせていた。花の色もきれいで、教会の前を通る方々も楽しんでいた。
惜しい思いもあり、そのままにしていたのだが、モミの木の限界と、キジハトが何度 も卵を産み子育てする大切さを思い、やむなき決断となった。
枝はしっかりフェンスに絡みつき、除くのが大変で、枝を外 した後のフェンスにはペンキを塗る必要があった。樹の部分は太くて、ノコギリで切るのも大変だった。
本当は根を取り除かねばならないが、モミの木に蔓延っていたため、全部除くことが出来ず、 部分切除に終わっている。しかしこれが問題で、ちょこちょこ出てくる芽を除く作業が大変!
うっかりしているとあちこちから芽を出し、花を咲かせんばかりの勢い。今日も芽を除きながら、 ゲッセマネで語られた主の御言葉「誘惑に陥らないように、日をさまして、祈っていなさい」を思 い巡らしている。心が燃えていても肉の弱さを持つ人間に対 して、産みまで理解して下さっている主を思うひと時である。
08'08.17 (日)
★力の限り喜び踊る★(K・T)
今年は久し振りに街頭の「阿波踊り」を見た。
盲導犬と共に踊る人々に、5歳前後のチビッ子達の踊り、県知事を先頭に 150名の職員による徳島連の踊りなど、数年前とはだいぶ様変わりしているのに驚かされた。
有名連もスポンサーと共に踊っている様は、時代の厳しさを 物語っているのかもしれない
大太鼓、締太鼓、笛、三味線、鉦の音のどよめきを聞きながら、 私の心に「力の限り喜び踊る」もう一つの踊りが浮かんで来た。
それは、サムエルU6章に記されているダビデの踊りである。
彼は神の箱を新しい車に乗せて、丘の上の家からダビデの町に 運ぼうと、歌を歌い、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、 シンバルを打ち鳴らして、主の前で力の限り喜び踊った
王自ら、主の前で跳ねたり、歌ったり、力の限り喜び踊ったのだ。
彼は亜麻布のエボデを身につけて歓声を上げ、角笛を吹き鳴らして、 主の箱を運んだのである。阿波踊りの上手な人を見ていると、 手足の指先、顔の表情まで踊っていて素晴らしい。
ダビデの踊りは決して上手だったとは思えないが、 主の臨在の故に心から喜んでいる、とびっきりの笑顔と、 全身に喜びが溢れた力強い踊りだったのではないだろうか。
力の限り踊る王とイスラエル全家の喜びの踊りは、 人々に大きな感動を与えたに違いない。主の臨在の前に、 私達は「力の限り喜び踊る」信仰者であろうか。
主の臨在の前に、心の喜びを全身に表わせる毎日の生活を営みたい。
08'08.10 (日)
★平和への祈り★(K・T)
今年も原爆の日がやって来た。1945年8月6日、プル トニウム型爆弾が1個広島に投下された。この爆弾は、アメ リカのバークレー研究所で、戦争を終わらせるために生成さ れた。その熱は3千度〜5千度と言われる。この放射線を浴 びると、外傷に火傷、白血球の減少、脱力感、嘔吐、下痢、 その他内出血、皮下出血、脱毛、発熱等造血機能と生殖機能 がダメ】ジを受け、原爆症となる。この認定を受けている人、 まだ認定されていない人も含め、どんなにか苦しい人生だっ たろう。勿論当日、被爆し黒こげに死んだ人、水を求め歩き ながら息を引き取った人、川に飛び込み芋洗いのような状態 で死んでいった人々の苦しみも忘れてはならない。漫画『は だしのゲン』の作者・中沢氏によれば「あの地獄はこの目に 焼きついている」とのこと。今別れたばかりの人が遥か遠く に吹き飛ばされ、真っ黒い姿で立ったまま白い目だけが自分 を見ている様は、6才の少年には過酷な経験だったろうし、 その後の人生も想像を絶する。原爆の苦しみを負いながら生 きてこられた方々に感謝するとともに、イザヤ53・4の主の 救いに与って一人一人の心に平和が与えられるよう祈りた い。私達は平和な生活に甘んずるのではなく、問題や困難に 積極的かつ勇敢に取り組みたい。イザヤ46・4の共に背負っ て下さる主にすべてを委ね、栄光のために造られたイザヤ 43・7の目的を全うさせて頂こう。一人一人の心に平和を!
08'08.03 (日)
★交通ルール★(K・丁)
数日前、自転車に乗った人が高速を走り、間もなく自動車 にはねられて死亡した、とのニュースが報じられていた。何 回か、自転車が高速を走っている、と警察に通報があったら しい。交通ルールを守らなかった自転車の人が当然悪いのだ が、はねた自動車はどうだったのだろうか?事故の原因の多 くは見落としだが、ルールを忘れていることによる事故も少 なくない。あれっ?と判断に迷ったりしたことはないだろう か?そんな時、教則本は頼りになる。実は私の父、86歳に の して今なお現役ドライバーである。彼の車には教則本が載っ ていて、事ある毒に教則本を見ている。反応は鈍いが、判断 力は実に正確。手本を見ながら絶えず記憶を正確に保とうと 努力している姿にいつも感心する。そしていつも思う、霊の 世界も同じだと。私の罪のためにイエス様が十字架に死んで 下さった事、それを信じた者は罪を赦されるだけでなく、罪 をもたらす性質も潔められる。この意識を正確に保つために は、霊の教則本なる聖書の基準に照らし、扱われ、基準にな い白らを箸ねて、聖霊の導きに従って歩む生活が大切。Uテ モテ3:16に「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教 えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」とある。年 とともに記憶が不確かになり、人間であるゆえの弱さを感じ る者ではあるが、聖書を書く時働かれた聖霊が、その弱さを も支えて助け、ルールを守らせて下さるとは!素晴らしい!
08'07.27 (日)
★ひとみのように★(K・T)
熱中症で倒れる方がニュースになっています。 お互いにくれぐれも健康には留意しましょう。疲れが過 度になってくると、目から涙が出ることがあります。経験さ れたことありませんか?日は小さい器官ですが、脳の一部分 と言われるくらい、脳と関係が深い大切な存在です。遠くの ものも近くのものも、遠近を自由に見極め、逆の映像を正し く受け止める、素晴らしい道具です。また、絶えず涙で乾燥 を防ぎ、心地良く開閉できるようにしています。それに加え て、眼底を見ることによって、血管にどのような変化が起き ているのかもわかるのです。昔から目は口ほどに物を言う ≠ニ言われますが、それは瞳に焦点が合わされているからで しょう。赤ちゃんの瞳を見て、私達は慰められたり、その清 らかさに自らの汚れを示されたり、また愛する者の目によっ て心熱くしたり、愛を感じたりするわけです。「からだのあ かりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなた の全身が明るいが」とマタイ6:22にありますように、一番 小さい目が全身を、否その人の心の内を表わすというのです。 この目を私たちは大切にしなければなりません。機能性だけ でなく、心を清く保つ必要があります。神様は私たちを「ご 自分のひとみのように」(申命記32:10)守ってくださってお られます。賛美歌264番を歌いましょう。♪ああ主のひとみ こたまなざしよ、…主ならずや♪神様の愛にお応えしましょう!
07'09.16 (日)
先月青空市に行った時のことです。 少し距離があったのですが、知人に気付いた私は 思わず手を振りました。 当然その方も手を挙げるなりして近寄って来るものと 思っていたので、言葉を交わした時 「見てる所が違うから」との答えに私はハッとしました。
「見てる所が違う!」ダビデという聖徒は一国の王にまで なった人ですが、生涯神様に集中した目を持っていた人でした。
『私の目はいつも主に向かう』詩篇25:15 『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている』詩篇26:4と。
親として最も辛く苦しい息子の裏切りと反逆に見舞われた時でさえ、 目を神様に集中して乗り越えて行きました。
問題課題が起こるとついその中に入り込んで右往左往してしまう。 そしてキョロキョロとあちこちを見回しては意気消沈してしまう。 しっかり神様を見つめ、常に神様に目をつけた生活を させて頂かなければと願わされ大いに反省させられた朝でした。
(K.T)
07'09.02 (日)
「心の目を大切にしましょう」
私の母は30代の頃、山に薪を取りに行き落ちてきた枯れ木が左の目に落ちて失明しました。その後の針仕事には苦労していました。私が針の穴に糸を通すというお手伝いをしたことを覚えています。
今私は白内障で、しばしば本を読む時に苦労することがあります。目の苦労はつらいものですね。

聖書には目に係わる話が多く述べられています。
肉眼で見る目と目を閉じて見る目があるのですね。
イエス様は「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタイ6章22節)とおっしゃいました。
別の翻訳では「あなたの目が澄んでおれば」と訳しています。
もちろんイエス様は文字通りに澄んだ目・きれいな目という肉眼のことではなく私たちの心の目のことを言われました。
「目が健全」ということは私たちの心が健全であって心がきよいということです。心の目がはっきり見えるようになり神の目も見えてきます。
心の目が健全な人は他人の欠点・過失・弱さ・失敗に目をつぶりますね。
他人のあら探しを得意とする目を持っている人もいますね。
イエス様は「人のあら探しはいけません。自分の目に材木を入れたままで、どうして人の目にあるおがくずほどの小さなゴミを気にするのか。まず自分の目から材木を取り除きなさい。」(リビングバイブル)と言われました。
神様から健全な目・澄んだ目きよい目を頂いて、自分の罪をしっかりと見据え罪を取り除いて頂きましょう。
そうすれば人を助けることができます。ここから本当に祝福された生活がスタートするのです。
自分に甘く他人に厳しいひとではなく、他人に優しく自分に厳しい人になりたいですね
(T.T)
07'07.04 (水)
お元気ですか?
教会のもみの木に山鳩の巣があって今日、今年三回目の巣立ちがありました。
親鳩が後退で一日も休まず卵を温めると二週間くらいで雛に孵ります。
親鳩は両方の翼の中に一つずつ雛を入れて2〜3週間抱いています。
雨が降ろうが、嵐で木が揺れようが、勿論雪が降ろうが寒さや雨の浸透等から守り、温度を一定に保ちながら餌を与えて育ててゆきます。
翼に抱けなくなる頃、親は多くの餌を与えるために巣に戻る時間を少なくし巣立ちへと促していきます。
巣立ちの時は餌を与え、飛び立つのを待って一斉に飛んで行くのです。
聖書に『主は、ご自分の羽であなたを被われる。あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾であり砦である。』とあります。
神様がご自分の羽で私たちを被って下さるというのです。
何を拠り所にしたらいいのか解らないこの時代、聖書の神は真実で裏切らず、大盾とも、砦ともなら頼りがいのあるお方です。
(K.T)